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従容録の自己流解説「71則~80則」

さて、従容録の第11則から20則を読み解いていきます。
1則から10則まではこちら 「従容録1則から10則」
11則から20則まではこちら「従容録11則から20則」
21則から30則まではこちら「従容録21則から30則」
31則から40則まではこちら「従容録31則から40則」
41則から50則まではこちら「従容録41則から50則」
51則から60則まではこちら「従容録51則から60則」
61則から70則まではこちら「従容録61則から70則」

以下の点を読み解いていく為の軸とします。
1,自己の本質や自己そのものが単一で存在しない
  これは、自己の存在認識が二元論的に自分と他人の対比による言語化された虚構の概念であるから。

2,「悟り」や「真理」という言葉に根拠を持たない。
  仏陀は悟りについて具体的に経典で言及していない。あくまでも悟ったと言う経験談を語っているに過ぎないので「悟り」が何かを定義しない。

3,人権や道徳、倫理に関わる問題はそのまま読み進める。
  ジェンダー、身分、職業、暴力、身体的障害等は現代の感覚とかけ離れているが、あくまでも当時の感覚と捉え気を悪くせず受け止めていただきたい。

4,本則の漫画のみを読み解くと読み手の自由な解釈が無限に出てくるため、
  宏智正覚禅師と万松行秀禅師が何を狙ってエピソードを取り上げたかにフォーカスして読み解く。

目次

第七十一則「翠巌眉毛」

第七十一則 翠巌眉毛(すいがんびもう)

衆に示して曰く:

血を含んで人に噴く、自らその口を汚す。
杯を貪って一世人の債を償う。
紙を売ること三年鬼銭(きせん)を欠く。
万松、諸人の為に請益(しんえき)す。
還って担干計(たんかんけい)の処有りや也(また)無しや。

杯を貪って・・・杯は酒のこと。年中酒を飲んでる人。
鬼銭・・・中国の一部の風習で紙を刻んで銭を作り鬼神に捧げるというもの。
担干計・・・決算の時に貸方借方がしっかり合っていること。

現代語訳
慈悲の心をもって相手を教え諭すとき、相手に嫌われても恨まれてでも教え諭す。
相手に気持ちよく酔っぱらってもらおうと酒を勧める人は、他人の酒代の借金を負う。
紙を売る人が、客のことを考え全部売り、自分が使う分の紙が無くなってしまう。
このように、師家(指導者)は自未得度先度他の心をもって指導にあたる。
私(万松行秀)も皆の為に今教えを説こう。
皆の役に立てるか分からないが、この話を取り上げよう。

本則

挙す。
翠巌、夏末に衆に示して云く【猶少なきを嫌うこと在り】、「一夏(いちげ)以来、兄弟(ひんでい)のために説話(せった)す【自ら家醜を揚ぐ】。
看よ、翠巌が眉毛(びもう)在りや?」【口交じることを害せず】。
保福、云く、「賊と作(な)る人、心虚なり」【也是火裏の人】。
長慶、云く、「生ぜり」【雪上に霜を加う】。
雲門、云く、「関」【街を欄(さえぎ)り巷を截(き)る】。

翠巌…翠巌令参禅師(???~???年)。雪峰義存禅師の弟子。詳細は不明。
夏末…90日間の雨安居の終わり。
兄弟・・・兄弟弟子のこと。同じ師を持つもの。
眉毛・・・間違った仏法を説けば眉毛が抜け落ちると言われる。
保福・・・保福従展禅師(???~928年)。雪峰義存禅師の弟子。詳細は不明。
虚なり・・・虚言と捉え、盗賊は嘘をつくから油断ならないと解釈する説。怯の意味と捉え、盗賊は悪い事をしながら内心怯えていると解釈する説がある。今回は後者で現代語訳する。
火裏の人・・・同じ釜の飯を食った盗賊仲間。
長慶・・・長慶慧稜禅師(854~932年)。雪峰義存禅師の弟子。24則と64則に出てくる。
雲門・・・雲門文偃禅師(864~949年)。雪峰義存禅師の弟子。11則や19則など従容録によく登場する。

現代語訳
翠巌禅師が雨安居の終わりに際し修行僧を集めた【雨安居では何度も仏法を説いたが、まだ不足か】。
そして、「雨安居以来、ずっと私は諸君の為に説法してきた【自らの恥をさらけ出した】。諸君の為と思い話をしたが、説く仏法が間違いであれば、その罪咎によって眉毛が抜け落ちると言われている。諸君、私の眉毛が抜け落ちているかよく見て欲しい。」【無用なことを言っているが、気にしていないようだ】。
すると弟弟子の保福が前に出てきて言った。「おかしいですね~~。間違いだと思っている人は内心怯えているはず。翠巌禅師は怯えているようには見えませんね~~」【良い誉め言葉だ。保福も翠巌も堂々としている】。
今度は弟弟子の長慶が前に出て言った。「落ちるどころかちゃんと生えていますよ。というかまるで眉毛で目が隠れているようです」【さらに眉毛を増やした】。
最後に弟弟子の雲門が前に出て言った。「関」【翠巌の説法が正しいとも正しくないとも言えない。その問いかけはとても難関だ。その難関な関所を誰も通ることが出来なくなってしまった】。

頌に曰く。
賊と作る心【臓物己に露わる】、人に過ぎたる胆【傍若無人】。
歴歴縦横機感に対す【白拈巧偸】。
保福雲門垂鼻(すいび)唇(しん)を欺き【探頭太だ過ぐ】、
翠巌長慶脩眉(しゅうび)眼(まなこ)に映ず【佯(いつわ)って知らざるを打ねす】。
杜禅和(ずぜんな)何の限りか有らん【天童の杜撰は万松に何似(いずれ)ぞ】
剛(し)いて道う意句一斉にきると【隠さんと欲して弥(いよいよ)露わる】。
自己を埋没(まいぼつ)して気を飲み声を呑む【子を養って父に及ぼざれば】。
先宗(せんそう)を帯累(たいるい)して牆(しょう)に面(むか)い板を担(にな)う【家門一世に衰る】。

臓物・・・盗人が盗った品物。
白拈巧偸・・・白拈は盗人のこと。スリをする盗人の手つきが上手だから見る事ができない。
脩眉眼に映ず・・・眉毛が長くて目が隠れてしまっている。
杜禅和・・・杜撰の禅和子のこと。杜撰とは杜黙という人が漢詩を作る時、平仄がめちゃくちゃで韻が踏めてないことから格式に合わないこと。和子とは和合衆、つまり修行僧の集団。
先宗・・・先達。
牆・・・壁。

現代語訳
翠巌禅師は雨安居を終える修行僧たちを試した。その、問答による指導は流石だ【凄腕の盗人だ】。
保福と雲門は言語と無言による素晴らしい答えをした。翠巌と長慶は長い眉毛で目を覆い隠すように見えないふりをした。
天下には、この4人の問答の意味が分からない僧侶が多くいる。この問答で翠巌禅師が90日間の雨安居で説いた仏法を纏めて切ってしまった。
翠巌禅師の90日間の説法が正しいか正しくないかなどを考えれば、修行の妨げとなる。翠巌禅師の教えに捉われず壁には梯子をかけて超えて行け【家門は一代で衰退する】。

解説

正しい仏法や、経典にこのように書いてあるからこれが正解の仏法だ、という仏法には何の根拠があるのだろうか。
正しいのは「書いてある」という事実だけです。「書いてある」ことが正しい、「言ったこと」が正しいという根拠は永遠に分からないでしょう。
しかし、師匠が弟子に指導するときに正しい前提で教え説きます。今回の話では正しさに固執して修行を続けてはいけないという教えです。雨安居の期間は修行僧が寺を出入りしません。新入りが入ってくることもなければ、他の寺に行脚する人もいません。90日間同じメンバーで修行します。その時に、皆で律を守り、同じ方向を向き、同じ仮設された正しい仏法に向かって修行します。その為に住職も指導を行います。
90日間が終わった後に90日間の正しさを一回ばっさり切り捨て、「○○は正しい」という自我意識から抜け出して修行をしないと、「正しさ」に執着しメンバーが変わるたびに、「正しさ」から逸脱した新入りや変化をしていく僧伽に心が乱されます。

正しい仏法などなく、あくまでも仮にその集団内で設定される仏と律があるだけです。

仏教は「仏の教え」ではなく「仏に成る為の教え」であると言われますが、「仏」が何かはよく分かりません。もし「仏」に成ったというのであれば、「あなたは仏です」と「仏」に承認される必要があり、「仏」の条件が明確な概念として提示されなくてはいけません。しかし、「仏」とは何かというのは今この瞬間の状態で示されることはあっても概念として明確に表現されることはありません。
いままで居た寺では、この作法で坐禅をしていたから、私はその作法を曲げない、といった凝り固まった人がいますが、柔軟に正しさを持たず行仏していかなければなりません。

第七十二則「中邑獼猴」

第七十二則 中邑獼猴(ちゅうゆうみこう)

衆に示して曰く:

江(こう)を隔てて智を闘わしめ、甲を遯(しりぞ)け兵を埋(うず)む。
覿面(てきめん)すれば真鎗実剣(しんそうじっけん)を相持(あいじ)す。
衲僧(のっそう)の全機大用(ぜんきだいゆう)を貴ぶ所以なり。
慢より緊に入る。
試みに吐露す、看よ。

江を隔てて・・・呉の周瑜が知略で、長江を挟んだ魏の曹操の軍を赤壁の戦いで破った故事。
甲を遯け・・・孫臏が甲兵を退け伏兵を置いて敵将である龐涓を引き込んで倒した故事。
覿面・・・相対すること。顔と顔がぶつかること。
慢より緊に入る・・・緩慢と緊急。ゆったりとした空間から急に緊急事態に入る。

現代語訳
我々、達磨門下の僧侶が法戦するとき、知略を駆使し相手の裏を書き大軍を打ち破る軍師周瑜のように、また伏兵を置いて敵将を仕留めた孫臏のように戦う。
しかし、軍隊と軍隊が相対せば、計略も通用するが、将軍同士が相対したとき真剣を持って切り結ぶ他ない。
僧侶も全身全霊で戦わなければならない。ゆっくりと戦術を練っている場合ではない。法戦は緊急の接戦だぞ。
試しに、緊迫した法戦を見せてやろう。

本則

挙す。
仰山、中邑に問う、「如何なるか是仏性の義?」【這箇の座主却って持論するに堪えん】。
邑、云く、「我汝が与(ため)に箇の譬喩を説かん【仮に宜しうして真に宜しからず】、室に六窓有り中に一獼猴を安ず【還って肯って寧息するや】。
外に人有りて喚んで狌狌(しょうしょう)といえば獼猴即ち応ず【再来、半文に直らず】。
是の如く六窓俱(とも)にに喚べば俱に応ずるが如し」【只檀郎が声を認得することを要す】。
仰、云く、「只獼猴睡(ねむ)る時の如きは又作麼生(そもさん)?」【寐語すること莫れ】。
邑、即ち禅牀を下って把住して云く、「狌狌(しょうしょう)我汝と相見せり」【何ぞ早く恁麼に道わざる】。

仰山…仰山慧寂禅師(807~883年)。潙山霊祐禅師の弟子。15則、26則、37則に出てくる。
中邑…中邑洪恩禅師(???~???年)。馬祖道一禅師の弟子。
室に六窓有り・・・室は自己、六窓は眼耳鼻口体心の六根。
獼猴・・・大猿。
狌狌・・・猩々のこと。人間に最も近い猿と言われる。
再来、半文に直らず・・・呼ぶ声に応じて答えるのでは価値がない。呼ばれる前に応じなければならない。
只檀郎が声を認得することを要す・・・この語句は五祖法演が言い、圜悟克勤が聞いて大悟をしたという。それ以来よく用いられる。自分を慕っている檀那が呼ぶ声を聴いて振り向いてくれるのを望んでいるだけで用事あって呼んでいるわけでは無い。狌狌という呼びかけも猿に用があるわけではない。
寐語・・・寝言。
把住・・・捕まえる事。

現代語訳
仰山が中邑に法戦を挑み、問答を始めた。
仰山「仏性とはなんだ?」【仰山の問答の相手として不足はない】と問答のテーマを掲げた。
中邑が答えた。「1つの例え話をもって答えよう」【あくまでも例え話であり真に受けてはいけない】。
そして中邑は「ここに一つの部屋(身体)があって、そこに六つの窓(眼耳鼻舌身意)がついている。そして部屋の中に1匹の大猿を入れる。部屋の外から『おい猿!』と呼びかけると大猿が返事をする【呼ばれる前に返事をしなければ価値がない】。六つの窓のどこから呼んでも大猿は返事をする。仏性とはそういうものだ。」という例え話で答えた【大猿を呼んではいるが大猿に用があるわけでは無い】。
仰山がさらに問いかけた。「では大猿が眠っていて、外からどんなに呼んでも反応しない時はどうする? 仏性はどうなる?」【仰山が寝言を言った】。
奇抜な問答をされた中邑は戦術を変え、座っていた場所から立ち上がり、仰山の胸倉を掴んで「大猿よ!!」と叫んだ。
そして「これで私と君が相対したぞ」と言った【例え話などせず最初から言えばよかったのだ】。

頌に曰く。
雪屋(せつおく)に凍眠して歳、摧頽(さいたい)【蟄戸開かず】。
窈窕(ようちょう)たる羅門(らもん)夜開かず【龍に龍句無し】。
寒橋せる園林、変態を看る【幾ど死殺せんとす】。
春風吹き起こす律筒(りっとう)の灰【喜得せり重ねて蘇ることを】。


窈窕・・・深く静かなさま。
羅門・・・葛が絡まっている門。隠居の様子。
変態・・・気候の変化。

現代語訳
中邑が長々と例え話をしているから雪が積もって戸が開かなくなっているぞ。
物静かに門がたたずんでるようだ【中に龍がいても気配がない】。
寒い中でも時間が経てば季節が変わり春が来る【危うく雪に埋もれて死ぬところだった】。
春の風が冬を吹き飛ばすように、中邑の胸倉を掴んで言った問答は素晴らしい。

解説

仏性という言葉がテーマになっています。
仏性とは涅槃経典に多く出てくる語句で、仏の性質・仏になる可能性・仏の種子などを意味するものです。
別名「如来蔵」とも言われ、仏性を修行によって開花させることにより如来になる、つまり悟りが開けるというわけです。
この仏性は誰でも持っていて、八正道などの実践で全員が悟れると主張するのが大乗仏教です。
つまり仏教では仏性は仏の本質であり、種であり、内在される実体と解釈されるわけです。
しかし、この解釈では今回の話は読み解けません。

さてこの仏性をテーマに法戦を行う話です。
仰山が仏性について問いかけます。
中邑は大猿の例え話をします。この例え話までは上記の解釈で読み進められます。部屋は自己であり、その中に仏の本質である大猿がいる。そして、視覚や聴覚などの感覚器官を通して八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)を実践することで仏性が反応し顔を出す。呼びかける間のみ、どの感覚器官からでも仏性を表すことが出来る。
このように解釈できます。
おそらく、この例え話を聞いた人は大猿(仏性)をどの感覚器官でも良いから呼び覚ますことが仏教なのだ、という話と考えます。
しかし、大猿が仏性だとすると仏性(大猿)が何者か、実際にはどんな名前で大猿を呼べば顔を出すのか分からず、結局呼ぶ手段が分からないという矛盾が生じます。
仏性について仏陀は「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易(一切衆生は仏性が悉く有り。如来は常に住して変易有ること無し)」と示しています。この後が問題です。仏陀は仏性が何かについて説いていないのです。「悉く有る」と言いつつ、「有る」モノがどんなもので、どのように認識されるものか分からないままなのです。
であれば、大猿を呼ぶ手段も仏典に書かれていないことになります。
この矛盾を踏まえて、仰山は大猿が寝ていて反応しなかったらどうするの?と聞きます。
大猿を起こす手段が分からない、起こす呼びかけの手段が分からない時、永遠に仏性が現れないのであれば、仏性の概念自体が無用となるからです。
その矛盾を指摘され中邑は手段を変えて、胸倉を掴みながら「大猿よ!」と呼びかけます。そして、この呼びかけによって相対したと言います。「大猿よ!」という呼びかけ=仏性であり、悉有であることを示したのです。つまり、大猿(仏性)の存在が内在しているかどうか、起きて反応するかどうかの話ではなく、自己が呼びかけるという行為をしている限りにおいて「呼びかける自己」が現成し、相対したということです。
最初の例え話で万松行秀は「大猿に用があるわけでは無い。」コメントしてます。つまり、仏性を表すことが目的でもなく、仏性が窓から顔を出すかどうかはどうでもいいことなのです。
大猿よ!!と叫んでも大猿が起きない前提の話なので、起きているかどうかは問題では無く、呼びかける行為が今自己に付随しているかどうかを問うことが仏性であると示したわけです。

第七十三則「曹山孝満」

第七十三則 曹山孝満(そうざんこうまん)

衆に示して曰く:

草に依り木に附き去って精霊(しょうれい)と作(な)り、
屈を負い冤(あだ)を銜(ふく)んで来たって鬼祟(きすい)となる。
之を呼ぶ時は、銭を焼き馬を奏(すす)む。
之を遣る時は水を呪し符を書す。
如何が家門平安なることを得去らん。

精霊・・・人が死んだ後の魂が未練によってさまよっている姿を精霊という。
屈を負い冤を銜んで・・・屈辱を感じ怨恨を抱いている。
鬼祟・・・無実の罪で裁かれた死者は耐えがたい怨恨と屈辱によって鬼神となって祟る。
銭を焼き馬を奏む・・・中国の風習で鬼神を呼ぶときに紙銭を焼き馬の形を供える。お盆の風習に似ている。
水を呪し符を書す・・・中国の風習で鬼神を追い払う時は水で呪いをして護符を書く。

現代語訳
過去に捉われ、後ろ髪をひかれる幽霊となる人がいる。
屈辱と怨みに支配された復讐の鬼となる人もいる。
幽霊や鬼を呼ぶときは庭先で火を焚いて、キュウリで馬を作るのが良い。
幽霊や鬼を追い払うには玄関に塩を撒いて結界の護符を貼るのが良い。
どのようにしたら家内が平穏になるだろうか。

本則

挙す。
僧、曹山に問う、「霊衣(れいえ)掛けざる時如何(いかん)?」【蟭蟟、穀を脱して猶寒枝を抱く】。
山、云く、「曹山今日孝満」【平生に負(そむ)かず】。
僧、云く、「孝満の後如何」【寛行大歩】。
山、云く、「曹山顛酒(てんしゅ)を愛す」【何の不可なること有らんや】。

曹山…曹山本寂(そうざんほんじゃく)禅師(840~901年)。洞山良价禅師の弟子。洞山五位説の大成者。52則に出てくる。
霊衣…日本でいうところの喪服。中国の喪服は白い。喪の期間は3年間とされているが、ここでは日本の風習に従って年が明けるまでとしておく。
蟭蟟・・・様様な種類の蝉たち。秋の蝉。
寛行大歩・・・何の障害も無く堂々と歩く。
顛酒(てんしゅ)・・・酒を浴びるほど飲んで酩酊状態になる。

現代語訳
ある時、僧侶が曹山禅師に聞いた。「喪中は明けていないが窮屈な喪服を脱ぎ捨てるように、しがらみから解放される時とはどのような境涯でしょうか?」【蝉が殻を脱ぎ捨て枝にしがみついているように、悟りにしがみついている】。
曹山禅師が答えた。「私の喪中は明けている。長期間の喪中が明けて喪服を着るとか着ないという事も考えようが無い境地だ」【日常の良いも悪いも無い日々を過ごす】。
僧がさらに「喪中が明けた後はどのような暮らしをするのですか?」と曹山禅師に斬り込んだ【聞きたいことを素直に聞く人だな】。
曹山禅師は「喪中では身を慎み生活をするが、喪が明けた今日は酒をがぶがぶ飲み酔っ払ってフラフラと歩いて行こうか」【結構なことだ】

頌に曰く。
清白(せいびゃく)の門庭四(よも)に隣(りん)を絶す【脳後に腮を見ば与(とも)に往来すること莫れ】。
長年関し掃(はら)って塵を容れず【設い有るも一点も著くる処無し】、光明転ずる処傾いて月を残す【否極まれば泰生ず】。
爻象(こうしょう)分るる時却って寅(いん)に建(おさ)す【陰は惨(うれ)い、陽は舒ぶ】。
新たに孝を満じ【泪痕猶未だ罷まず】、便ち春に逢う【相喚んで秋千(しゅうせん)を打す】。
酔歩狂歌(すいほきょうか)堕巾(だきん)に任(まか)す【熟(つらつら)礼を講ぜず】。
散髪夷猶(いゆう)、誰か管係(かんけい)せん【千自由、百自在】。
太平無事酒顛の人【七村裏、這の漢快活】。

清白の門庭・・・白茅で出来た質素な庵。
脳後に腮を見ば・・・第2則にも出てくるが後ろ姿を見た時に横アゴが飛び出ている人相は油断ならないという噂から。
否極まれば泰生ず・・・否も泰も易学の卦の名前。否は天地の気が塞がり天候が乱れる。泰は陰陽が通じて天気が晴れる。ここでは裏表がひっくり返るという意味。
爻象分るる時・・・これも易学。天地人が天と地と人に分かれる。
寅に建す・・・これも易学。陽気発見の気とある。春が来たということか。
秋千・・・ブランコ。俳句では春の季語である。
堕巾・・・被っている帽子を落とす。
夷猶・・・フラフラ歩く。

現代語訳
喪に服している間は質素な生活をして四方の家とも交流を絶ち、ひっそりと暮らす。
長年誰も訪ねてこないから煩わしさから解放されている。
喪が明ければ一転、冬から春になったかのように子供たちが楽しそうにブランコで遊ぶ。
陽気の中、酒を飲み、鼻歌を歌いながらフラフラ歩く。
帽子を落としてもお構いなし、真の気軽さだ。
この無事平穏の日々は、迷悟、善悪などの二項対立の見方を離れた境地だ。

解説

喪中を修行と悟りに例えて示す話です。
喪中を修行と、喪が明け自由自在な境地を悟りと考え話す僧侶に曹山禅師は「私はすでに喪が明けている。」と言います。
これは「私は修行が終わり悟っている」という話ではなく、「修行する私こそが悟りである」という意味です。
そして僧侶は修行と悟りを別物と考えている為「悟った後の生活はどうのようなものか?」と聞きます。修行が終わっているのだから修行生活ではないと思っているのでしょうか。
曹山禅師は「べろべろに酔っ払って、ふらふら歩く」と言います。喪中か喪が明けているかを考えているわけでは無い安楽の境地を楽しむという意味です。

仏陀は「怒らないコツは怒らないこと」と当たり前のことを言います。怒りや貪りや虚しさ悲しさを感じる時の解決方法は怒らない、貪らない、虚しくない、悲しくない状態を実践することです。自己啓発本よろしく何かテクニックがあるかもしれませんが、最終的に心が苦しくない状態への移行が目的であり、その状態を実践し続けることが解決方法です。
その時に、「○○をした結果怒らない」と因果関係で考えてはいけません。「怒っていない状態の自己」をこの瞬間に実践している時のみ「怒らない自己」の存在が現れます。悟りも同じく「○○をした結果悟った」とはなりません。
坐禅をした結果、悟りが現れることはなく、怒りも貪りも行為も思いも言葉も手放し、何者でもなく、何のために坐るわけでも無い坐禅をしている瞬間に「怒らない自己」「何でもない自己(無為の真人)」が現成するのです。であれば坐禅の結果、悟り、悟った後は悟りの状態が続くということは無い。

今回の話では酔っ払った状態を愛すと表現されるように、愚かな僧侶がいうところの「修行が終わった後」は「修行という安楽の状態(悟り)を愛し、続けていく」という答えを曹山禅師は返します。

第七十四則「法眼質名」

第七十四則 法眼質名(ほうげんしつみょう)

衆に示して曰く:

富満徳を有(たも)って蕩(とう)として繊塵(せんじん)無し。
一切の相を離れて一切の法に即す。
百尺竿頭(かんとう)に歩を進めて、十方世界に身を全うす。
且らく道へ甚麼(なん)の処より得来るや。

一切の相を離れて一切の法に即す・・・華厳経にある語句。

現代語訳
五体満足で生まれ、五感で物事を判断できる能力を有し生まれ、それらは宝物である。
とはいえ、よく自己の存在をならえば、我が物である肉体も感覚能力も一つも無い。
我が物が無いと分かれば全ての事物に存在の根拠が無い。
長い竹の頂上まで登り切った後、もう一歩踏み出せば落ちてしまう。自己が無いのであれば落ちてみるがよい。
落ちた先に何が在るだろうか?一体我々はどこから登って来たのだろうか?

本則

挙す。
僧、法眼に問う、「承る教に言えること有り。無住の本より一切の法を立すと。
如何なるか是れ無住の本(もと)?」【狗口(くく)合取(がっしゅ)せよ】。
眼、云く、「形は未質より興り【眼華すること莫れ】、名は未名より起こる」【畢竟喚んで甚麼とか作(な)さんや】。

法眼…法眼文益(ほうげんぶんえき)禅師(885~958年)。地蔵桂琛(じぞうけいちん)の弟子。17則、27則、51則、64則に出てくる。
教…ここでは維摩経。

現代語訳
維摩経にこのような話がある。
文殊菩薩が維摩に聞いた。「心の苦しみ、死、老いなどへの恐れを持つ未熟な修行者は何を拠り所にすれば良いのか?」
維摩は「苦しみと恐れの中に居るのなら、如来の功徳を拠り所としなさい。」と答えた。
文殊菩薩はまた「修行者が如来の功徳を拠り所とするには、何をすれば良いのか?」と問い
維摩は「衆生を苦しみから救うことをすれば良い」と答えた。
文殊菩薩はまた「衆生を苦しみから救うには、どうすれば良いのか?」と問い
維摩は「衆生の煩悩を除くのです」と答えた。
文殊菩薩はまた「煩悩を除くには何をすれば良いのでしょうか?」と問い
維摩は「正しい思いを持って理に適った修行をさせるのです」と答えた。
文殊菩薩はまた「理に適った修行とは何でしょうか?」と問い
維摩は「不生不滅を念じて行為をするのです」と答えた。
文殊菩薩はまた「何が生じず何が滅しないのでしょうか?」と問い
維摩は「不善は生ぜず、善は滅しない」と答えた。
文殊菩薩はまた「善と不善の根拠は何か?」と問い
維摩は「自己が根拠だ」と答えた。
文殊菩薩はまた「自己の根拠とは何か?」と問い
維摩は「欲望と愛着である」と答えた。
文殊菩薩はまた「欲望と愛着の根拠は何か?」と問い
維摩は「虚妄分別、誤った考えである」と答えた。
文殊菩薩はまた「虚妄分別はどこから来るのか?」と問い
維摩は「偏った考えから来る」と答えた。
文殊菩薩はまた「偏った考えは何を根拠に生み出されるのか?」と問い
維摩は「無住(根拠はない)」と答えた。
文殊菩薩はまた「根拠が無いと言える根拠は?」と問い
維摩は「根拠が無い事に根拠はない。文殊菩薩よ、全ての事物は根拠が無い事を根底に持っている」と答えた。
この話を持ち出して、ある僧侶が法眼禅師に聞いた。「根拠はないと言える根拠が無い根拠は?」
法眼禅師が答えた。「目に見える物質は認識される前には存在しない。ここに布がある。赤ん坊のように『ヌノ』という言葉も知らず、使い道も知らない時は布は布として存在できない。いつから布が布として存在していたかの根拠は布を扱う自己と同時に発生する為、現在は布にも自己にも根拠はない。」

頌に曰く。
蹤跡(しょうせき)没(な)く【羚羊角を挂く】、消息断(た)つ【久しく負いて逢わず】。白雲根無し【妙体本来処所無し】、清風何の色ぞ【通身那(なん)ぞ更に蹤由有らん】。
乾蓋(けんがい)を散じて心あるに非ず【尚能く岫を出づ】。坤與(こんよ)を持して力有り【精神を費やさず】。
千古の淵源(えんげん)を洞(ほが)らかにし【尽く這裏に向かって流出す】、万象の模則(もそく)を造る【一法の所印】。
刹塵(せつじん)の道会(え)するや処処普賢(ふげん)【街を攔(さえざ)り巷を截(き)る】。楼閣(ろうかく)の門開くるや頭頭弥勒(みろく)【築著磕著(ちくじゃくかつじゃく)】。

羚羊角を挂く・・・羊が角を枝に引っ掛けて眠る時は足跡が残らない。
乾蓋・・・天のこと。
坤與・・・地のこと。
刹塵・・・刹は国土。塵は万法や万物のこと。
楼閣・・・二階建て以上の建物をあらわす。ここでは華厳経のエピソードで善財童子が弥勒菩薩を入れた門のこと。華厳経入法界品。
築著磕著・・・あちこちにぶつかる。

現代語訳
歩んできた足跡も無く、存在した痕跡も無い。雲に根は無く、風に色は無い。
心持ち次第でどのようにも成ると思っても、心がそもそも存在しない。存在し続けるという根拠はない。
始まりも分からない存在の在り様を見極めて、全てがフィクションだと分かる。
概念も物質もフィクションである。フィクションに智慧の普賢菩薩が現成する。門を開けるという行為と同時に門と弥勒(門を開ける人)が現成する。

解説

華厳経の示衆、維摩経観衆生品の本則に華厳経入法界品の頌という則です。

維摩経に示され内容は物事に根拠はなくフィクションである。。そして自己もフィクションである。ということです。
それだけ。

絶対の法則、絶対の根拠、絶対の存在を仏教にでは認めない。神も仏も認めない。神も仏も縁起していく(ある条件下で存在する)フィクションであると考える。

よく、科学を齧った研究者などは、○○は絶対であるという。そして学者も考察というもっともらしい言葉を使い、感想を定説かのようにしていく。
観測された事象に感想を加えたモノが都合よく解釈されるだけです。そもそも観測にも我見が入り、我見が入らない観測はありえません。病気を定義し、分類し、観測方法を定めているのは自己です。
科学も歴史も、「このように考えれば辻褄が合う」だけのこと。そこに私の感想という領域を出ている根拠はない。

第七十五則「瑞巌常理」

第七十五則 瑞巌常理(ずいがんじょうり)

衆に示して曰く:

喚んで如如となす、早く是れ変ぜり。
智不到の処、切に忌む道著(どうぢゃく)することを。
這裏還って参究の分ありや也(また)無しや。

如如・・・南泉禅師の問答に「喚んで如如となす、早く是れ変ぜり」。とあり、ある事物の存在様式は関係性により一瞬一瞬で変化している(諸行無常)ことを示す。
道著・・・著は助詞。道は言葉。

現代語訳
「これは○○である」と言った時に、その存在の在り様は一瞬一瞬で変化している。
知識や概念で言い表せない「○○」は、そもそも沈黙するしかない。
沈黙しつつも、「○○」はどのように存在しているのかをどのように考えれば良いのだろうか?

本則

挙す。
瑞巌、巌頭に問う、「如何なるか是本常の理?」【理有れば声高に在らず】。
頭、云く、「動ぜり」【理を知るべし】。
巌、云く、「動の時如何?」【再犯を容さず】。
頭、云く、「本常の理を見ず」【物を相して価を作す】。
巌、佇思す【却って慚愧(ざんぎ)を識るや】。
頭、云く、「肯(うけが)う時は即ち未だ根塵を脱せず【箇の中、肯路無し】、肯わざる時は永く生死に沈む」【堂に当たって正坐せず、那(なん)ぞ両頭の機に赴かん】。

瑞巌…瑞巌師彦(ずいがんしげん)(???~???年)。巌頭全豁(がんとうぜんかつ)禅師の弟子。夾山禅師にも参じている。無門関12則の主人公の話が有名である。
巌頭…巌頭全豁(がんとうぜんかつ)禅師(828~887年)。徳山宣鑑(とくざんせんかん)禅師の弟子。22則、43則、50則、55則に出てくる。
本常の理・・・不動不変の真理。
佇思・・・考え込む。
堂に当たって正坐せず・・・洞山禅師の寺の維那である休静が「僧堂の上間に坐る者は山で柴刈りを、下間に坐る者は畑を耕してください」と言った、すると首座和尚が「上間と下間の中間にいる聖僧菩薩(像)は何をするのか?」と聞いた。その時に休静が答えた語句である。

現代語訳
瑞巌が巌頭禅師に「不変不動の仏法の真理とは何でしょうか?」と聞いた【声を張ってこの質問をするとは、理に適っていないと分かってるな】。
巌頭禅師は「真理が動いたぞ!」と答えた【動き変化する理を知るべし】。
瑞巌は「真理が動くとなると、不動不変の真理はどうなるのですか?」と聞いた【同じ過ちの質問をしたな】。
巌頭禅師は「不動不変の真理は見えなくなる!」と答えた【存在の仕方をよく観察したほうがよい】。
瑞巌は動く動かないの二元論に陥り、真理が分からなくなってしまった。
深く考え込む瑞巌に巌頭禅師は「真理が有ると思っている内は煩悩が消える事は無い!! 真理が無いと持っていると怒りや貪りや虚しさなどの心の苦しみが永遠に続くだろう!!」【有るとか無いとか思っている内はダメだ、有無も無い】

頌に曰く。
円珠(えんじゅ)穴あらず【甚の処に手を下さん】。
大璞(たいはく)は琢(たく)せず【功夫して惜しむべし】。
道人の貴とぶ所、稜角(りょうかく)無し【就理蔵鋒】。
肯路を拈却すれば根塵(こんじん)空ず【十二処忘ず閑影響】。
脱体無依活卓卓(だったいむえかつたくたく)【三千界に浄光明を放つ】。

円珠・・・丸い宝珠。
大璞は琢せず・・・大璞は土から出てきた玉。琢は磨くという意味。真の宝石は磨く必要がない。
拈却・・・捨て去る。
根塵・・・眼耳鼻舌身意の六根とそれによって起こる六つの塵(煩悩)。
脱体無依活卓卓・・・脱体は丸出し。無依は事物が何かに依存して存在しているわけでは無いこと。活卓卓は独立して活きていること。

現代語訳
丸い宝石は傷一つ無い【手を加える必要は無い】。
元々価値がある宝石は磨かなくても価値がある【工夫の仕様がない】。
出家者が重要と捉える真理は丸く境は無い【全ての真理に根拠はない】。
真理が有ると思って歩む仏道をさっさと捨て去り歩めば苦しむ自己が消失する【全ての感覚器官から起こる妄想が砕かれる】。
脱ぎ捨て丸出しになり、何にも依存した存在では無いことをならい、主人公として活きていく【縁起の光明が世界を照らす】。

解説

今回は仏法の真理についての話です。
そもそも、真理と聞くと、どんな条件下でも通用する絶対の法則や絶対の正義だと思われがちです。
しかし、現実にそんな絶対の真理があるのだろうか?
人を殺してはいけない。「これは絶対の真理である」と思っても、実際は自らの手を汚さない政治家が命令すれば軍隊は平気で殺人を行う。
日本仏教ではダンマパダ(発句経)を「真理のことば」と訳して読まれることがある。この内容を見てみると、「良き友を持ち共に歩め」と書かれているかと思えば、「一人歩め、一人でいることは安楽である」と書かれている。
また、「勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで寝込んでしまう」とあり、また、「全てに打ち勝て」という。因みに、仏陀は性欲に打ち勝つために、美女を目の前に「お前はウンコが入った糞袋だ。糞袋に欲情しない」と言い、美女を怒らせている。
これらの真理のことばは何を表しているかというと、「真理はある」しかし「時と場合によって沢山ある」ということです。
ただ、有る無しで真理を語っても良くない。「今この場所で真理だから」という理屈がまかり通ってしまう。
真理はあくまでも瞬間瞬間の「主体」と「対象物」の関係性で構築される限定的なモノであり、その真理は言語で定義できない。
たとえば、「これはコップである」という事象は、「飲む私」と「飲む道具であるコップ」が「飲む」行為によって同時に現れる。しかし、このコップも状況下で様々なコップになる。テレビを見ながら無意識に飲むビールのコップなのか、友人とカフェに行き紅茶の味を楽しみ飲むコップなのか、茶道を行じ作法に従い敬意を持って扱われるコップなのか。
全てコップと表現されても差し支えないが、同じではない。その存在の仕方が全く違う。これらは茶道において、初心者が作法に注意しながら扱うコップも、熟練者が自然と身体が動き扱うコップか、嫌な事を思い出しながら心が散漫な時に扱うコップかで、同じお茶碗でも存在の仕方が違う。それらを言語化することは出来ないし、概念として扱う事ができない。
しかし、「飲む私」と「コップ」が「飲む」行為で同時に現成していることは真理である。その現成する真理の仕方が一定ではないというだけである。
このことを巌頭禅師は「真理が動いた」と言った。
そして動く真理は、ある行為によって保証されている以上、その行為が終われば見えなくなってしまう。

最後に有るも無いもダメと締めくくります。そもそも有る無しで語る場合、○○が有る、○○が無いとしか言いようがありません。概念として存在しないモノを「無い」と言えない以上、有るも無いも無いのです。見えなくなってしまうことを「無し」とは言えないということです。

瑞巌という僧侶は無門関にも出てきます。
瑞巌は師匠の元を離れ、一人でひっそり修行をします。
その修行は朝起きると、頭の上に大きな石を乗っけて落ちないように姿勢を正し坐禅を行うというもの。そして坐禅中に「おい!主人公!」と自らに呼びかけ、自ら「はい!!」と返事をする。そさらに「しっかりしろ!他に騙されるな!」と自ら言い、「はい!!」と答える。
この主人公は、自分の行為や自分の心で物事の在り様が決まるという意味と捉えられがちです。しかし、これでは西洋の唯心論と一緒です。そうではなく、自らも「ある行為」で存在が確立し、その自己の存在様式も可動可変であるという意味です。
このように主人公も一歩間違えれば、確かな不動の自己がいるかのように捉えられてしまう。

第七十六則「」

第七十六則 

衆に示して曰く:

本則

挙す。

頌に曰く。

解説

第七十七則「」

第七十七則 

衆に示して曰く:

本則

挙す。

頌に曰く。

解説

第七十八則「」

第七十八則 

衆に示して曰く:

本則

挙す。

頌に曰く。

解説

第七十九則「」

第七十九則 

衆に示して曰く:

本則

挙す。

頌に曰く。

解説

第八十則「」

第八十則 

衆に示して曰く:

本則

挙す。

頌に曰く。

解説

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