従容録の自己流解説「61則~70則」
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以下の点を読み解いていく為の軸とします。
1,自己の本質や自己そのものが単一で存在しない
これは、自己の存在認識が二元論的に自分と他人の対比による言語化された虚構の概念であるから。
2,「悟り」や「真理」という言葉に根拠を持たない。
仏陀は悟りについて具体的に経典で言及していない。あくまでも悟ったと言う経験談を語っているに過ぎないので「悟り」が何かを定義しない。
3,人権や道徳、倫理に関わる問題はそのまま読み進める。
ジェンダー、身分、職業、暴力、身体的障害等は現代の感覚とかけ離れているが、あくまでも当時の感覚と捉え気を悪くせず受け止めていただきたい。
4,本則の漫画のみを読み解くと読み手の自由な解釈が無限に出てくるため、
宏智正覚禅師と万松行秀禅師が何を狙ってエピソードを取り上げたかにフォーカスして読み解く。
目次
- ○ 第六十一則「乾峯一画」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第六十二則「米胡悟否」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第六十三則「趙州問死」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第六十四則「子昭承嗣」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第六十五則「首山新婦」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第六十六則「九峯頭尾」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第六十七則「厳経智慧」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第六十八則「夾山揮剣」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第六十九則「南泉白牯」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第七十則「進山問性」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
第六十一則「乾峯一画」

第六十一則 乾峯一画(けんぽういっかく)
衆に示して曰く:
曲説は会(え)し易し、一手に分布す。
直説は会し難し、十字に打開す。
君に勧む分明(ふんみょう)に語ることを用いざれ。
語り得て分明なれば出ずること転(うた)た難し。
信ぜずんば試みに挙す、看よ。
曲説・・・委曲な説明。詳しい説明のこと。特に仏典では比喩表現を用いて示されることが多い。
一手・・・片手。
十字・・・両手両足。
現代語訳
丁寧な説明を聞き、示してもらうと理解しやすいが、片手にしか物を貰えないように教え全部が自分の物にすることは出来ない。
逆に、細かい説明も無く、分かりやすい比喩表現も無い説明を聞きながらも自身のテーマに沿って参究できたら、片手や両手どころではなく、両手両足で教えを受取ることが出来る。。
僧侶達には仏教の詳細な説明を語らないことをお勧めする。
また教えを学ぼうとする者も詳細な説明を求めないことをお勧めしする。
詳細に説けば説くほど、その言葉に捉われ縛られてしまう。
このことが信じられず細かい説明を求める者もいるだろう。では昔の人の話を持ち出してみようか。
本則
挙す。
僧、乾峯(けんぽう)に問う、「十方薄伽梵(ばぎゃぼん)、一路涅槃門、未審(みぶかし)、路頭甚麼(なん)の処に在るや?」【快馬鈍壎(どんげん)に如(し)かず】。
峯、「柱杖を以て一画して云く、這裏(しゃり)に在り」【且く一半を信ず】。
僧、挙して雲門に問う【疑えば則ち別に参ぜよ】。
門、云く、「扇子𨁝跳(ぼっちょう)して三十三天に上り、帝釈の鼻孔に築著(ちくぢゃく)す【乞う漢語せよ】。
東海の鯉魚(りぎょ)打つこと一棒すれば、雨、盆の傾くに似たり、会すや会すや」【恁麼に解説(げせつ)すれども更に理会し難し】。
乾峯・・・乾峯禅師(???~???年)。洞山良价禅師の弟子。
十方薄伽梵・・・十方は八方に上下を加えたもの。いたるところという意味。薄伽梵はサンスクリット語のバガヴァット、世尊と訳される。
一路涅槃門・・・涅槃(煩悩が消滅した状態)へと行くとこが出来る実践。涅槃は輪廻からの脱却とされるが上座部と大乗でニュアンスが変わるようだ。
門・・・雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師(864~949年)。雪峰義存禅師の弟子。
𨁝跳・・・飛び跳ねる。
三十三天・・・須弥山の頂にそれぞれ四峰があり、それぞれの峰に八天があって三十二天となる。そこに須弥山の頂上である帝釈天の居住を加えて三十三天と呼ばれる。
築著・・・ぶつかる。
現代語訳
ある時、僧侶が乾峯禅師に質問した。「お経に『仏陀の悟りはいたるところに在り、その道は一本道である』と書かれています。その悟りや道とはどこにあるのでしょうか?」【勢いよく質問したが、その質問は愚かだな】。
乾峯禅師は持っていた杖で虚空に円を描いて「ここにある」と言った【半分言い得た】。
そのまま僧侶は雲門禅師の元へ行き同じ質問をした【分からなければ他の人に聞けばよい】。
雲門禅師は「扇子が跳ね上がって須弥山の頂上まで行き、帝釈天の鼻の穴に刺さった」と答えた【意味不明だぞ、日本語で話してくれよ】。
さらに続けて「日本海の海で魚を叩いたら天地が暗くなり、バケツをひっくり返したような雨が降って来た。どうだ悟りが分かったか?道が分かったか?」【どのような説明を聞こうとも理解できるわけがない】。
頌
頌に曰く。
手に入って還って死馬を将(も)って医(い)す【霹靂の手を下して狼虎の薬を用いる】。
返魂香(はんこんごう)、君が危うきを起こさんと欲す【棺を掲げて死を救う、別に神方有り】。
一期、通身の汗を拶出(さっしゅつ)せば【薬、瞑眩(めまい)せざれば厥(そ)の疾癒えず】、方(まさ)に信ず、儂(わし)が家、眉を惜しまざることを【頂寧に和して没却す】。
霹靂の手・・・優れた腕前。
狼虎の薬・・・劇薬。
頂寧・・・頭。
現代語訳
この僧侶は一度死んだ馬のようなものだ。しかし、乾峯禅師の手にかかれば蘇生させることができる【乾峯禅師の腕前は素晴らしい。劇薬を活かすも殺すも自由自在だ】。
雲門禅師の手の中には死者蘇生のお香が握られている【棺に入った死人を引き出す術を持っている】。
乾峯禅師と雲門禅師の投薬は全身の汗を流して病原菌を追い出すことが出来る【めまいがするくらいの治療でなければ治らない】。
仏法を言い間違えてしまうリスクを冒してまで僧侶に示したのは慈悲心より出たものであろう。
解説
この話に詳しい解説はいらないでしょう。では次の則に行きましょう。
第六十二則「米胡悟否」

第六十二則 米胡悟否(べいこごひ)
衆に示して曰く:
達磨の第一義諦、梁武頭迷う。
浄名の不二法門、文殊口過まる。
還って入作の分有りや也(また)無しや。
達磨の第一義諦・・・従容録第二則。
浄名の不二法門・・・従容録第四十八則。
入作の分・・・仏道を歩む力量。
現代語訳
梁の武帝が達磨大師に「悟りにとって一番重要なこととはなんだ?」と問いかけ、達磨大師は「雲一つ無く、遮るものが全くない境地です」と答えた。さらに武帝は「何も無いことが悟りと言うのであれば、今目の前に入るお主は何者だ?」と問うと「何者であると認識できる自己は持ち合わせていない」と言われてしまう。武帝はこの意味が理解できなかった。
また、維摩居士が文殊菩薩に「二項対立による見方から抜け出す実践とは?」と問いかけ、文殊は「一つの説法ですらも止めて、あらゆるものごとについて言語化することもなく、解説することもない。また仮に概念を設けることもないこと。」と答えた。黙る事が答えだと言いつつ言葉で答えている以上、言い過ぎてしまっている。
さて、仏道を言い得る力量や示す力量があるものはいるのか?
本則
挙す。
米胡(べいこ)、僧をして仰山に問わしむ。「今時の人還って悟りを仮るや否や?」【還って曽て迷う】。
山、云く、「悟りは即ち無きにはあらず、第二頭に落つることを争奈何(いかん)せん」【如何が免れ得ん】。
僧、廻って米胡に挙似(こじ)す【是第幾ぞ】。
胡、深く之を肯(うけが)う【肯うことは即ち無きにあらず、争でか第二を免れ得ん】。
米胡・・・米胡禅師(???~???年)。潙山霊祐禅師の弟子。仰山禅師とは兄弟弟子になる。
仰山・・・仰山慧寂禅師(840~916年)。潙山霊祐禅師の弟子。第十五則に出てくる。
第二頭に落つ・・・悟りと迷いの二元的な見方に陥る。
現代語訳
米胡禅師が弟子に「兄弟弟子である仰山禅師のところへ悟りについて質問してきなさい」と言い、使いに出した。
米胡禅師の弟子が仰山禅師のお寺に着き謁見し質問した。「今の時代の僧侶は悟りを設定し、悟りを目指す必要があるのでしょうか?」
仰山禅師が答えた。「悟りが無いとは言わない。しかし、『悟ってる状態』と『悟っていない状態』で区分して修行することに陥ってしまってはいけない。」【どのように区分せず悟りを設定するのか?】。
これ以上の問答は悟りを区分せずには行えないと理解した米胡禅師の弟子は何も言わなかった。
米胡禅師の弟子は師匠の元へ帰り事の顛末を報告した【この報告は多くの分別を含んでいる】。すると米胡禅師は「そうだ!そのとおりだ!!」と言った【肯定することは、否定の裏返しである。すでに二元論に陥っている】。
頌
頌に曰く。
第二頭悟を分って迷を破る【普州の人、賊を送る】。
快(すみや)かに須らく手を撒(さつ)して筌睇(せんてい)を捨つべし【放下著】。
功未だ尽きず駢拇(へんぼ)と成る【終に是分外】。
智也(ちや)、知り難し、噬臍(せいぜい)を覚ゆ【禹力不到の処、河声流れて西に向かう】。
兎老いて氷盤秋露泣く【恋著すれば即ち堪えず】。
鳥寒うして玉樹暁風凄(せい)たり【坐著すれば即ち不可なり】。
持し来たって大仰真仮を弁ず【一点も謾じ難し】。
痕玷(こんてん)全く無うして白珪(はっけい)を貴ぶ【切に忌む触破することを】。
普州・・・盗賊が多い地域。
手を撒して・・・手を打ち払う
筌睇(せんてい)・・・魚を捕る筒とウサギを捕る網。
駢拇・・・外反母趾。足の親指と人差し指が重なる。
噬臍・・・後悔。
禹力不到・・・夏王朝の禹王は治水工事を行ったが黄河の源流までは手が届かなかった。
氷盤・・・月。
玉樹・・・雪を帯びた木。
痕玷・・・玉の傷。
白珪・・・美しい玉。
現代語訳
悟りと迷いを分けて考えては、どちらが悟りか迷いか分からなくなる。
すぐに、悟りを得ようとする考えを捨てよ。
何にもならない、何も狙わない修行の功徳が悟りの痕跡すらも消し去る。
痕跡の無い悟りを知る事は出来ない。自分のヘソを自分で咬もうとするようなものだ。
知識を離れ、経験を離れたところに晴れ渡った秋の満月がある。
米胡禅師は卓越した禅師であるから、仰山禅師へ弟子を遣わし仮の悟りを聞きだした。
仰山禅師の迷悟に捉われない完璧な受け答えは、真に素晴らしい。
解説
「無い」という時に、概念として「在る」ものしか「無い」という概念を持ち出せない。
「冷蔵庫に卵ある?」と聞かれ「無い」と答える時、概念として卵は「ある」。この時、「卵」と「卵以外のもの」という二元論で卵を実体視している。
しかし、概念化される「悟り」は無いという時に、無い物を改めて「無い」とは言えない。その「無」を概念化された言語で表すことは出来ないでしょう。
第六十三則「趙州問死」

第六十三則 趙州問死(じょうしゅうもんし)
衆に示して曰く:
三聖と雪峰とは春蘭秋菊なり。
趙州と投子とは卞璧(べんぺき)燕金なり。
無星秤上(むせいひょうじょう)、両頭平らかなり。
没底舡の中、一処に渡る。
二人相見(しょうけん)の時如何。
三聖・・・三聖慧然禅師。臨済義玄禅師の弟子。詳細は不明。13則に出てくる。
雪峰・・・雪峰義存(せっぽうぎそん)禅師(822~908年)。徳山宣鑑禅師の弟子。24則に出てくる。
趙州・・・趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師(778~897年)。南泉普願禅師の弟子。9則などに出てくる。
投子・・・投子大同(とうすだいどう)禅師(819~914年)。翠微無学禅師の弟子。慈済大師と諡す。
卞璧燕金・・・楚の卞和(べんか)が掘り出した宝石と燕の国で産出される金。共に優劣が付けられない宝石をあらわす。
無星秤・・・目盛りの無い秤。
没底舡・・・底の無い船。
現代語訳
三聖と雪峰はそれぞれ教えを受け継いできた師匠たちが違うが春の桜と秋の菊のように優劣はつけられない。
趙州と投子は共に大きな修行道場の指導者であり、宝石と黄金のように優劣はつけられない。
目盛りの無い秤の上ではそもそも優劣は無い。
重さに優劣が無い二人が乗り合ったら底抜けの船でも向こう岸へ渡ることが出来る。
そんな二人が出会ったらどのような問答を交わすのだろうか。
本則
挙す。
趙州、投子に問う、「大死底の人却って活する時如何?」【探竿手に在り】。
子、云く、「夜行を許さず、明に投じて須らく到るべし」【影草、身に随う】。
大死底の人・・・仏道を邁進する人。仏道以外に目を向けず、煩悩が一点も無い人。
探竿・・・泥棒が穴から中に棒を挿し込んで中の様子を探る時の竿。
夜行を許さず・・・夜は外出禁止である。
影草・・・草の束を水に沈め、その影に魚が集まったところを網で掬う漁法。隠れ蓑のこと、盗人が身を隠す道具。
現代語訳
趙州禅師が投子禅師に「死人のように煩悩も断ち切って仏道を歩む人が煩悩に触れてしまった時、どうなってしまうのか?」【趙州禅師が探りを入れてきたぞ。油断するな】と問いかけた。
投子禅師が答えた。「なぁぁにぃぃぃ?死人が生き返っただとぉぉ?夜に歩き回っているから死人か生人か気になるのだ。明るくなってから出直してまいれ!!!」【投子禅師は明暗の言葉で議論から隠れたぞ。流石だ】。
頌
頌に曰く。
芥城(けじょう)劫石(こうせき)妙に窮める初め【今時を及尽して始めて成立することを得る】、
活眼環中、廓虚(かくこ)を照らす【絶後に重ねて蘇らば君を欺くことを得ず】。
夜行を許さず暁に投じて到る【已に程途に渉る】。
家音(かいん)未だ肯(あ)えて鴻魚(こうぎょ)に付せず【已に是妄りに消息を伝う】。
芥城・・・長い時間。
劫石・・・長い時間。
家音・・・故郷へ送る音信。
鴻魚・・・手紙を送る際に使った鳥と手紙を偶々呑み込んだ魚が手紙を届けた故事から音信のこと。
噬臍・・・後悔。
禹力不到・・・夏王朝の禹王は治水工事を行ったが黄河の源流までは手が届かなかった。
氷盤・・・月。
玉樹・・・雪を帯びた木。
痕玷・・・玉の傷。
白珪・・・美しい玉。
現代語訳
長い仏道の歩みの最初を究め尽くしている。1000年後の窮みと今の窮みに違いは無い。
その窮みとはドーナツの中心が虚空であるのと同じである【死人のように歩む人が煩悩に出会ったとしても欺くことは出来ない】。
死人は死人で究め尽くし、活きる時は活きる様を究め尽くす。暗い夜に歩けないように、死人なのか活人なのか定かでないなら動くことは無い。
この二人に議論は必要なさそうだ。
解説
さて、この問答のポイントは「大死」と「活きる」ことです。自我意識も無く、ただただ仏道に邁進する人はまさに、ロボットか死人と同じです。しかし、人間は生きている以上、食事をし排便し、寝ますし、様々な現象物質から欲望を起こすことがあります。
仏道に邁進する人が煩悩の原因に触れた時、どうするのか?という問いかけです。
答えは、「何もしない」です。その対象を見て、触って、嗅いで、どのような自我意識の起こりで煩悩を起こしているのか煩悩を起こしている間は分かりません。冷静な判断が出来ているのであれば、その時は煩悩が消えている状態でしょう。であれば、落ち着くまで対象物から距離を置くか、距離が置けなければ何もしないのが正解でしょう。
そして、この問答自体も、その死人が活きる現象の一つです。
なので、投子禅師は問答の議論から完全におりる為に、暗いうちに歩き回るな、明るくなってから出直せと言い、それ以上の議論を断ち切っています。
我々も、日々テレビを見た時、政治に触れた時、誰かと会話したとき、無駄で無用で徒に心を乱す議論を思い起こしてはいないでしょうか。よくよく点検していかなければなりません。
第六十四則「子昭承嗣」

第六十四則 子昭承嗣(ししょうじょうし)
衆に示して曰く:
韶陽(じょうよう)、親しく睦州(ぼくしゅう)に見(まみ)えて香を雪老に拈ず。
投子(とうす)、面(ま)のあたり円鑑(えんかん)に承(う)けて法を大陽に嗣ぐ。
珊瑚枝上に玉花開き、薝葡林(せんぷくりん)中に金果熟す。
且らく道(い)え如何が造化し来らん。
韶陽・・・雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師(864~949年)。雪峰義存の弟子。韶陽山にいたので韶陽と呼ばれていた。
睦州・・・睦州道蹤(ぼくしゅうどうしゅう)禅師(780~877年)。黄檗希運禅師の弟子。
雪老・・・雪峰義存(せっぽうぎそん)禅師(822~908年)。徳山宣鑑禅師の弟子。24則に出てくる。
投子・・・投子義青(とうすぎせい)禅師(1032~1083年)。大陽警玄禅師の法を嗣ぐ。
円鑑・・・浮山法遠禅師(991~1067年)。葉県帰省禅師の弟子。
大陽・・・大陽警玄禅師(943~1027年)。梁山縁観禅師の弟子。
薝葡林・・・薝葡は香りの良い花とされる。維摩経に出てくる。ここではクチナシを指す。クチナシは実が熟しても果実が割けないので「口無し」という。
現代語訳
雲門禅師は最初、睦州禅師の元で仏道に入門した。後に雪峰禅師の弟子となり法を嗣いだ。
投子義青禅師は浮山禅師に参じ仏道を歩んできた。しかし、嗣いだ法は投子義青禅師が生れる前に亡くなった大陽禅師の法であった。
仏法の極意を嗣ぎ、代々引き継いでいくということは決して実体を持って消息の定まったものではない。雲門禅師や投子禅師のように丁寧に指導してくれ方が師匠とならないことも不思議ではない。
法を嗣ぐということは、珊瑚の枝に花が開き、クチナシの果実が割れるようなものであろう。
さて、どのように育てたら珊瑚に花が咲き、クチナシの実が割れるのであろうか?
本則
挙す。
子昭(ししょう)首座、法眼に問う、「和尚開堂何人(なんびと)に承嗣(じょうし)するや?」【早く今日閑管と成ることを知らば、悔ゆらくは当時(そのかみ)好心を用いざれ】。
眼、云く、「地蔵」【恩帰するに地有り】。
昭、云く、「太(はなは)だ長慶先師に辜負(こふ)す」【肘膊外に向かって曲がらず】。
眼、云く、「某甲長慶の一転語を会せず」【佯(いつわ)って知らざるを打(まね)す】。
昭、云く、「何ぞ問わざる」【狼を引得し来って屋裏に屙(あ)せしむ】。
眼、云く、「万象之中独露身。意作麼生?」【覿面に相呈す】。
昭、乃ち払子を竪起(じゅき)す【両重の公案】。
眼、云く、「此は是長慶の処に学する底なり、首座分上作麼生?」【筈を劈(さ)き窠(か)を奪う】。
昭、無語【只、跳得一跳せよ】。
眼、云く、「只だ万象之中独露身というが如きは是万象を撥(はら)うか万象を撥わざるか?」【却って葫蘆(ころ)の倒(さかさま)に藤が繳(まと)わる】。
昭、云く、「撥わず」【話、両橛(りょうけつ)と作る】。
眼、云く、「両箇」【明眼は謾じ難し】。
参随の左右皆云う「万象を撥う」と【転た堪えざるを見る】。
眼、云く、「万象之中独露身、聻」【両彩一賽】。
子昭首座・・・長慶慧稜禅師の元で修行している僧侶。詳細は不明。首座は修行僧のリーダー的ポジション。この時、長慶禅師は死去し首座の配役も終わっているのだろうか。
法眼・・・法眼文益(885~958年)。この話では子昭と同じく長慶慧稜禅師のもとで修行していた。17則27則に出てくる。
閑管・・・無駄話。無関係な人。
地蔵・・・地蔵桂琛(じぞうけいちん)禅師(867~928年)。羅漢院というお寺に移った為、羅漢桂琛とも。12則20則に出てくる。
長慶先師・・・長慶慧稜禅師(854~932年)。先師は亡くなった師匠のことを指す。この話の時は亡くなっていたのだろう。24則71則に出てくる。雪峰義存禅師の弟子。
肘膊・・・肘と膝。
屙・・・排尿させる。
万象之中独露身・・・この語句は長慶慧稜禅師が師匠である雪峰禅師の元で大悟した際に提示した偈頌。
両重の公案・・・「万象之中独露身」と「払子を竪起す」の公案。
跳得一跳・・・そこから飛び出して、さらにその先からも飛び出せ。
葫蘆・・・瓢箪。
聻・・・これ。そのまま。○○はどうだという軽い感嘆文。
両彩一賽・・・サイコロを二つ転がし、同じ目が出ると共に同じ物質特性を表している。このとき、二つで一つであるという例え。
現代語訳
法眼は長年に渡り長慶禅師の元で修行していた。しかし、地蔵桂琛(じぞうけいちん)禅師から法を嗣いだ。
同じく長慶禅師の元で共に修行していた子昭首座が法眼に質問した。「法眼さんは最近、住職の就任式を挙げたそうですが、誰から一人前の認可を貰って法を嗣いだんだ?」【無駄な質問をしたものだ。後悔するぞ】。
法眼は「地蔵禅師から法を嗣いだ」と答えた【法を受け嗣ぐ時は、しっかりと人から人へ引き嗣がれる】。
子昭首座は「長年、長慶禅師の元で世話になっておきながら、他の師匠から法を嗣ぐなど!!長慶禅師に申し訳ないと思わないのか!!!」と激しく責め立てた【肘や膝を外側に曲げるような無理な理屈だ】。
法眼は「長慶禅師がいつも言っていた言葉を私は会得出来なかったから長慶禅師から法を嗣がなかったのだ」と答えた【会得出来なかったというのは嘘だろう】。
子昭首座は「であれば、私に長慶禅師の言葉の意図を聞けばよかろう!!!」と言った【また、余計な事を言ったな】。
法眼は「では聞こうか。長慶禅師の『万象之中独露身(万象の中に独り身を露わす)』の意味とはなんだ?」と聞いた【言われた通り目の前に公案を持ち出した。もう逃げられないぞ】。
子昭首座は払子をスッっと立てた【独露身と払子と二つの公案になってしまったぞ】。
法眼はこれを見て「それは、長慶禅師が行った独露身だ。真似事ではなく君自身の独露身を示してくれ」と言った【子昭首座は武器も奪われ領地も取られてしまったように窮地に追い込まれたぞ】。
子昭首座は行き詰ったのか何も言えなくなってしまった【長慶禅師の払子から飛び出す必要がある】。
法眼は「『万象之中独露身(万象の中に独り身を露わす)』とは、万象という妄想の外に独露身を存在させるのか、万象を存在させてその中に身を独り露出させるのか、どちらであろうか?」と聞いた【法眼を責め立てたが、逆に法眼から責められてしまった】。
子昭首座は「万象を存在させてその中に身を独り露出させる」と答えた【二択の話ではなかったのに、勝手に二択の答えを言わされている】。
法眼は「万象と身が存在するのであれば、独りとは言えぬぞ」と言った【法眼を欺くことは出来ない】。
さらに法眼は子昭首座に参じている修行僧達に同じ質問をした。すると、皆口をそろえて「万象という妄想の外に独露身を存在させる」と答えた【子昭首座が間違えたので、逆の事を言った】。
二択の問題で不正解を指摘されたら、もう片方を答えるしかないのだから、修行僧達も法眼の罠にかかったのだ。
もともと二択の問題ではないのだ。
法眼は「万象之中独露身とは、万象は中か、万象は露身か、万象が独であるか。どうだ!!」と言った【在るか無いかの二元で考えてはいけない】。
頌
頌に曰く。
念を離れて仏を見【草枯れて鷹眼疾し】、塵を破って経を出だす【雪尽きて馬蹄軽し】。
現成の家法【少るにあらず剰るにあらず】、誰か門庭を立せん【尽く這裏より流出す】。
月、舟を逐うて江練(こうれん)の浄に行き【一多無礙、去住自由】、
春は草に随って焼痕の青きに上る【頭上に夾山を薦取せよ】。
撥と不撥と【転ずれば必ず両頭走る】、聴くこと丁寧にせよ【事は細に厭わず】。
三径荒に就いて帰ることは便ち得【下坡走らずんば】、
旧時の松菊尚芳馨(ほうけい)す【快便逢い難し】。
現代語訳
仏には仏としての特徴があるとも思わず、仏と仏以外を区別しない時に、仏に見えることが出来る。
乱れる心を仮設しなければ、お経に見えることが出来る。
この縁起の在り様がそのまま、仏道の修行道場の家風である。別にその家風を実体があるかのように掲げなくても良い。
月は船を追って水面に映り、春は草に随って現成する。
万象に在るのか、万象が妄想されるのか、どちらでもなさそうだ。
法眼は長慶禅師の言葉を持ち出し、独露身を説いた。
長慶禅師の仏法は「嗣ぐ」「嗣がない」の実体を持たない。松や菊の芳香のように独露身即現成である。
解説
現在の曹洞宗でも、伽藍法といい宗教法人の代表役員を引き継ぐからという理由でわざわざ付き随った師匠から寺院の先代に師匠を変える輩がいる。
しかし、法眼禅師は地蔵禅師から寺を継いだから法も嗣いだわけではない。では、なぜ長年随ってきた長慶禅師ではなく地蔵禅師の元で嗣法したのか。法眼禅師は「長慶禅師の言葉を会得出来なかったから」と言いますが、それ以降の会話で示される通り、師匠の言葉を会得することなど永遠に無いのでしょう。
考え、理解し、実践する努力はするが「分からない」で留めておかなければ、結局は勘違いや猿真似で終わってしまう。
そして、達磨門下の僧にとって誰から法を嗣ぐかどうかは重要では無い。嗣ぐ法の実体を認めず、人と相対して言い間違えながら嗣いでいくのである。
これは達磨門下の特徴であろうと思います。浄土宗浄土真宗では三部経が軸となり、三部経に書かれていることを根拠に悟りと修行を行います。日蓮宗では妙法蓮華経を拠り所とし悟りの核とします。
しかし、達磨門下の我々は実体の在る「只の文字(お経)」や「誰かの言葉」や「この宇宙に存在する本質」や「ありのままの自己」などというものを拠り所とはしないのです。
何を拠り所とするのかと言われれば、「分からない」が答えでしょうか。神を拠り所とするわけでもなく、聖書のような文字を拠り所とするわけでもない仏教という宗教はマジで流行らない宗教ですね。
第六十五則「首山新婦」

第六十五則 首山新婦(しゅざんしんぷ)
衆に示して曰く:
叱叱沙沙(たたささ)、剥剥落落(はくはくらくらく)。
刁刁蹶蹶(ちょうちょうけつけつ)、漫漫汗汗(まんまんかんかん)。
咬嚼(こうしゃく)すべきこと没(な)く、近傍なし難し。
且らく道(い)え是甚麼(なん)の話ぞ。
叱叱・・・怒る犬(獅子)のこと。舌打ちする音。
沙沙・・・吠えまくる犬(獅子)の声。声がしわがれること。
剥剥・・・引き裂かれたかのように、つんざくような声で鳴く犬(獅子)。門戸を激しくたたく音。
落落・・・落ち着き犬(獅子)のこと。
刁刁・・・風のように速く走る犬(獅子)のこと。そよそよ風が吹く様。
蹶蹶・・・急ぐ犬(獅子)のこと。戒め務める様。
漫漫汗汗・・・水面が広く果てしない様。
現代語訳
犬はワンワンと鳴き、ニワトリはコケコッコーと鳴くという。
しかし、犬はバウバウと鳴き、ニワトリはクックアドゥールドゥと鳴くという人もいる。
このような語句には何の意味もなく、嚙み砕いて説明することも出来ない。答え合わせも出来ない。
さて正しい鳴き声を端的に言う僧侶の話はあるだろうか?
本則
挙す。
僧、首山に問う、「如何なるか是れ仏?」【可煞(はなはだ)新鮮】。
山、云く、「新婦、驢に騎(の)れば阿家(あこ)牽(ひ)く」【是何の道理ぞ】。
首山・・・首山省念禅師(926~993年)。風穴延沼禅師の弟子。
阿家・・・姑。
現代語訳
ある僧侶が首山禅師に質問した。「仏ってなんですか??」【よくある質問だ】。
首山禅師は「花嫁が馬に乗れば姑が馬を引く」と答えた【これは何の道理だろうか。嫁は嫁、姑は姑と誰が決め、乗る人と引く人は誰が決めるのだろうか】。
頌
頌に曰く。
新婦、驢に騎れば阿家(あこ)牽(ひ)く【草木拈出することを労せず】。
体段風流自然(じねん)を得たり【描不成、画不就】。
笑うに堪えたり、顰(ひん)に学(なら)う隣舎(りんしゃ)の女【巧を弄して拙と成す】。
人に向かって醜を添えて、妍(けん)を成さず【笑いを傍観に取る】。
顰・・・顔をしかめる。
隣舎の女・・・昔、中国に西施(せいし)という美人がいた。ある時、西施が腹が痛くなって顔をしかめた。美人が顔をしかめると、さらに美人に見えた。それを見た隣の女が嫉妬して、自分も顔をしかめてみた。すると余計に不細工になった。しかし、隣の女は不細工になったことなど分かるはずがなく、周りの人から笑われてしまう。
現代語訳
花嫁が驢馬に乗れば姑がこれを牽く【見たまま】。
その風景から何を感じるのかは人それぞれであろう【見たままの事以上に描くことはできない】。
人がその風景でどのように感じたかなどどうでもよく、他人の感性など分かりようがない。真似しようとしても真似出来ない。
解説
今回の話は衆に示して~にある通りです。
本則だけ読むと何のことか分かりません。
犬はワンワンと吠え、風はゴウゴウと吹き、落ち着かないとソワソワする。しかし、この「ワンワン」「ゴウゴウ」「そわそわ」という語句で犬の鳴き声や風の音、落ち着かない人をそのまま表わせているかと言うとそうではない。
ワンワンと聞いてシマウマの鳴き声を思い浮かべる人がいたとしても不思議ではない(私は実際にシマウマはワンワンと鳴いているように聞こえる)。文化が違えばソワソワしているという表現は当てはまらないだろう。実際に音が鳴らない擬態語だけではなく、ニワトリの鳴き声「コケコッコー」のような実際にそう聞こえる擬音語は正しいだろうと言う人もいます。しかし、世界を見てもコケコッコーと聞こえるのは日本人とマオリ族だけです。アメリカはクックアドゥールドゥ、フランスはコックェリコ、中国はコーコーケー、韓国はコッキョクウクウコーコ、ロシアはクカレクーです。なぜこのような事が起こるのか。それは人間は見たまま聞いたまま嗅いだままを言語化できないからです。自分のフィルターと知識を持って、事象を書き換え解釈し勝手にかみ砕いて言語化していくのです。
もし、見たままを人間がそのとおりに写真のように絵に描ければ、遠近法や下書きも無ければ美術の授業も必要ありません。遠近法といっても、手前を大きく遠方を小さく画く西洋の方法もあれば、遠方をぼやかしながら描く水彩画、手前をダイナミックに遠方を動きの少ない山などで表現する葛飾北斎など様々な手法があります。もし、見たままを描けるのであれば別に絵など珍しくもなく、エジプトの壁画も全員横を向く必要は無かったでしょう。
人間の五感による認識作用は全てフィルターを通して概念化言語化されていくのです。
であれば「ホトケ」という言語で表現される何かを説明してくださいと言われれば、言葉による答えは全て自己の経験と知識に基づき改変された擬音語か擬態語となるわけです。
「ほとけ」と聞き、仏像を思い浮かべる人もいれば、ガウタマシッダールタを思い浮かべる人もいる。悟りを開いた人を思い浮かべる人もいれば、亡くなった人を思い浮かべる人もいる。そして聞いたことも無ければ、それがモノなのか概念なのか事象なのかも分からない人もいる。
それは、花嫁が馬に乗り、姑が馬を牽く風景を見て、様々な物語や人間模様を思い描いてしまうように、「ホトケ」という語句に答えを求めても結局のところ、直接仏を現せる言葉が存在しないことになる。
しかし、犬の鳴き声を説明しろと言われ、言葉で答えるのが間違いであるとはいえ、犬を目の前に連れてきて鳴かせればそれは本物です。鳴いているその瞬間だけは犬の鳴き声を語らずとも示すことができる。
同じように仏を聞かれ言葉で答えるのが間違いであるとはいえ、修行により示すことは出来る。それは犬が鳴いている瞬間のみ「犬の鳴き声が現成」するように、修行の間だけ証明がなされる。
この僧侶はこの理が分からず下らない質問をしたのだろ。
第六十六則「九峯頭尾」
第六十六則 九峯頭尾(きゅうほうずび)
衆に示して曰く:
神通妙用(じんづうみょうゆう)底も脚を放ち下さず、忘縁絶慮(ぼうえんぜつりょ)底も脚を抬(もた)げ起こさず。
謂つべし有る時は走殺(そうさい)し、有る時は坐殺(ざさい)すと。如何が格好し去ることを得ん。
神通妙用・・・日常生活の上で自由に仏道を活用すること。
忘縁絶慮・・・縁起も認識も全て持たずにいること。達磨門下の僧侶にとっては坐禅。
走殺・・・走りきる事。ここでは神通妙用のこと。作務も僧堂飯台も経行も読経も妙用。
坐殺・・・座りきる事。ここでは忘縁絶慮のこと。坐禅。
恰好・・・標準にあうこと。ちょうどいい様。
現代語訳
日常の仏道修行において、箒で掃くことも食事をすることも身体を洗うことも怠ってはいけない。
全ての行為も認識も離れて参禅することも怠ってはいけない。
作務をするときは作務に徹底し、食事をするときは食事に徹底し、参禅は坐禅に徹底する。
この仏道の示す好き日常とはどのようなものだろうか?
本則
挙す。
僧、九峯に問う、「如何なるか是頭?」【高く威音の前に超う】。
峯、云く、「眼を開けて暁を覚えず」【明、戸を超えず】。
僧、云く、「如何なるか是れ尾?」【独り劫空の後に歩す】。
峯、云く、「万年の床に坐せず」【穴、巣に棲まず】。
僧、云く、「頭有りて尾無き時如何?」【先行は到らず】。
峯、云く「終に是貴からず」【奴は婢を見て殷勤(おんごん)】。
僧、云く、「尾有りて頭無き時如何?」【末後は太(はなは)だ過ぎる】。
峯、云く、「飽くと雖も力なし」【甚麼の用処有らんや】。
僧、云く、「直(じき)に頭尾相称(あいかな)うことを得る時如何?」【君臣道合し上下和同す】。
峯、云く、「児孫力を得て室内知らず」【各(おのおの)其の分に安んず】。
九峯・・・九峯道處(くほうどうしょ)禅師(???~???年)。石霜慶諸禅師(807~888年)の弟子。
頭尾・・・頭は頭脳、初め、最初の意味。尾は末端、手足、終りの意味。
威音・・・威音王仏。最初の仏と言われる。
穴、巣に棲まず・・・古来人類は穴倉に棲んでいた。技術が発達し木や石を組み立て家を作るようになったが、未だ穴に棲んでいるかのように停滞しているという意味。
現代語訳
ある僧侶が九峯禅師に質問した。「初心の仏道とはどのようなものですか?」【始まりの無い仏道もある】。
九峯禅師が答えた。「目が覚めているのに、戸が開いていないから部屋の中は真っ暗で朝が来ていることに気付けていないような状態だ」。
僧がさらに聞いた。「では仏道のゴールに行きつくこととはどのようなことでしょうか?」【世界が滅亡した後に独りでいる】。
九峯禅師が答えた。「仏法が満ちたと思えば、それはまだまだ足りない。まだまだ仏法が足りないと思った時、仏法が満ちていく。なぜなら、『私は悟った』と思えば停滞してしまう。」
僧がさらに聞いた。「では初心があってゴールが無い時はどうでしょうか?」。
九峯禅師が答えた。「それは良い事とはいえないな。ゴールが無ければ道筋も見えないだろう。道筋の見えない仏道は結局堕落していく。」
僧がさらに聞いた。「では初心は無いがゴールがある時はどうでしょうか?」
九峯禅師が答えた。「ゴール直前にたどり着いたとて、そこから動く力が無く結局ゴール出来ないだろう。」
僧がさらに聞いた。「では初心もゴールもある時はいかがでしょうか?」
九峯禅師が答えた。「自分だけでなく、弟子や孫弟子に到るまで目が覚めるだろう。光の届かない室内はもう誰もいないだろう。」【頭も尾もそれぞれが役割を果たしている】
現代語訳②
ある僧侶が九峯禅師に質問した。「思慮分別を離れ坐禅を行じる仏道とはどのようなものでしょうか?」
九峯禅師が答えた。「目が覚めているのに、戸が開いていないから部屋の中は真っ暗で何事も認識していない状態だ。」
僧がさらに聞いた。「では、仏法にならに、作法に随い、食事を行じ、作務を修行する仏道はどのようなものでしょうか?」
九峯禅師が答えた。「心の乱れを静めることも無く何年も過ごしていくようなものだ。」
僧がさらに聞いた。「坐禅を常に行じ、それ以外を全く行わない仏道はいかがでしょうか?」
九峯禅師が答えた。「それは良くない。」
僧がさらに聞いた。「では坐禅を行わず、作法に随い食事・用便・洗面・作務のみを行う仏道はいかがでしょうか?」
九峯禅師が答えた。「やったつもりになって満足してしまう。結局仏道を歩む力を持てないだろう。」
僧がさらに聞いた。「坐禅も食事も用便も洗面も歩行も作務も全てが仏道であるときはいかがでしょうか?」
九峯禅師が答えた。「素晴らしい事だ。自分だけでなく、弟子や孫弟子に到るまで目が覚めるだろう。光の届かない室内はもう誰もいないだろう。」【頭も尾もそれぞれが役割を果たしている】
頌
頌に曰く。
規(き)には円(まど)かに矩(く)は方(けた)なり【椀児には団欒、盤児には四角】。
用ゆれば行い、舎(す)つれば蔵(かく)る【升児裏に廻らし斗児裏に転ず】。
鈍躓(どんち)、蘆(あし)に棲むの鳥【豈(あに)高く飛び遠く揚ぐることを解せんや】。
進退、藩(まがき)に触るるの羊【大方に独歩する能わず】。
人家の飯を喫して【快かに須らく吐却すべし】、自家の床に臥す【切に忌む根を生ずることを】。
雲騰(のぼ)って雨を致し【春生じ夏長ず】、露結んで霜と為る【秋収め冬蔵す】。
玉線相投じて針鼻を透り【聯綿無間】、錦糸絶えず梭腸(さちょう)より吐く【翻覆通同】。
石女、機を停(や)めて、夜色午(しょくご)に向かう【文彩縦横意自ずから殊(こと)なり】。
木人、路(みち)転じて、月影、央(なか)ばを移す【行くことを解して今時の道に触れず】。
規には円か・・・コンパスは〇を書く。
矩は方なり・・・定規は□を書く。
升児・・・枡のこと。四角い分量を量る器。
斗児・・・柄杓などの分量を量る丸い器。
藩・・・囲い、境界。
梭腸・・・梭は機織りの時に糸を通す道具。その梭の穴のこと。
翻覆通同・・・裏も表も素晴らしい。
夜色午に向かう・・・真夜中が日中になる。
現代語訳
コンパスは〇を描き、定規は□を描く【お椀は丸く、お盆は四角い】。
〇を描くという行為によってコンパスが現成し、□を描けば定規が現成する。描かなければコンパスも定規も無い【四角い枡も丸い柄杓も同じ用途である】。
愚かな鳥は芦の中に棲み天敵に狙われる【高く遠くまで飛べることを知らない】。羊は柵にぶつかると、どこにも行けないと思い込みパニックを起こす【柵を飛び越えて大草原を走り回れることを知らない】。
頭で考えるから他人が説いた概念や言葉に捉われてしまう【難しい仏教用語など全部吐き出せ!】。
安楽の心に執着があるから、坐禅から立てなくなってしまう【自分だけの安楽という根を引っこ抜け!】。
雲が出来て雨を降らせ、朝露が霜を作る。雲は雨ではなく、露も霜ではない。
糸が針の穴を通り様々な布模様を織りなす。自ずから美しい織物が出来る【裏も表も素晴らしい模様だ】。
石像の女も織物を止めて真夜中から日の出に向かう。
木造の人も道を引き返して真夜中から日の出に向かう。
解説
今回の本則は3パターンの解釈が出来ます。
①頭=初心 尾=ゴール
悟りの入り口と悟りの出口のようなニュアンスでしょうか。
②頭=坐禅 尾=作務などの対象物を用いる実践
思慮分別を捨てるか、思慮分別を用いて修行するか。
③頭=学問、知識、勉強 尾=日常底の坐禅、作務、食事、一挙手一投足
このいずれかかと考えます。では万松行秀禅師はどの解釈で大衆に示したのでしょうか。また天童正覺禅師はどの解釈で頌を書いたのでしょうか?
①はなさそうです。②か③でしょう。本則の漫画は②か③である前提で作成しています。
よく頭の凝り固まった学者や神通妙用を超能力などと主張する師家は難しい仏教用語を学習していないと出家者ではない、考えるな感じろみたいなことを言います。
では、その難しい仏教用語や超能力的な記述はどこからきているのだろうか。それらは往々にして説一切有部などの2000年前の学者派閥などの部派仏教です。この集団は、複雑に心や認識作用を細分化し概念化し、こねくり回し経典に脚色(荘厳)して論経として発表していきます。いわば当時の僧侶の感想文に出てくる勝手な概念化解釈です。それを知らなければ僧侶ではないということは無いでしょう。そして、その感想文こそが仏教の本質であると考える事は外道の極みです。
しかし、かといって過去の祖師がまとめた論経を疎かにしてはいけません。これらは、自身が仏道を歩むうえでの参考になり、反省材料になり、仏道へのモチベーションになります。
仏祖にならい、反省し、発心を続けながら日常生活を仏道にして行じる時に、行持と学問どちらも怠ってはいけないのでしょう。
道元禅師が記した清規などの規範はやはり、実践をと学問どちらも怠っていないからこそ大衆に示すことができたのでしょう。私も日々の行いを反省し、作務も参禅も食事も教学も怠らず真っすぐに進んでいきます。
第六十七則「厳経智慧」
第六十七則 厳経智慧(ごんきょうちえ)
衆に示して曰く:
一塵万象を含み、一念三千を具す。
何かに況(いわ)んや天を頂き、地に立つ丈夫児。
頭(ず)を道(い)えば尾(び)を知る霊利(れいり)の漢。
自ら己霊(これい)に辜負(こふ)し家宝を埋没すること莫しや。
現代語訳
少しの認識、少しの思いが全ての認識する事物を形作っている。
天を知り、地を知る人は優れた出家者だ。
頭から尾まで知る人は利発な出家者だ。
自ら宝蔵を捨てて自己の行いに背くことのないように華厳経を語句に参究しようか。
本則
挙す。
華厳経に云く、「我今普一切衆生具有如来智慧徳相。但妄想執着而不証得」。
現代語訳
華厳経に云く、「我今普く一切衆生を見るに、如来の智慧徳相を具有す。但だ妄想執着を以て証得せず」。
頌
頌に曰く。
天の如くに蓋い地の如くに載す。
団を成し塊を作す。
法界に周(あまね)くして辺なく、隣虚(りんこ)を折(くだ)いて内無し。
玄微(げんび)を及尽して、誰か向背(こうはい)を分たん。
仏祖来って口業(くごう)の債を償(つぐな)う。
南泉の王老師に問取(もんしゅ)して、人々只だ一茎菜(いっきょうさい)を喫せよ。
現代語訳
天のように、地のように、塊は個別の区分がない。
世界に端っこはなく、非常に細かい塵を砕いても中身には塵しかない。
細かい物質を見ると前も後ろも分からない。
歴代の僧侶が理屈っぽく言ってしまった。それにより心や悟りに区分があるかのように見えてしまう。
そんな区分の話を聞くよりも南泉禅師に聞いた方が良い。杉山禅師と蕨を採りに行ったときに、「人人よく蕨の味をかみしめよと言っている」。
解説
なんか、感想文みたいなお経が多いんですよ。仏や悟りを讃嘆するような。
第六十八則「夾山揮剣」
第六十八則 夾山揮剣(かっさんきけん)
衆に示して曰く:
寰中(かんちゅう)は天子の勅、閫外(こんがい)は将軍の令。
有る時は門頭に力を得、有る時は室内に尊と称す。
且らく道え、是れ甚麼人(なんびと)ぞ。
寰中・・・天子の直轄地。
現代語訳
都は皇帝の勅令によって治まり。郊外は将軍の号令によって治まる。
故に、有事の際は将軍が兵力を集め、無事の際は皇帝が城で威徳を示す。
仏道の道場で同じように皇帝と将軍が活躍した話を見てみようか。
本則
挙す。
僧、夾山(かっさん)に問う、「塵を撥って仏を見る時如何?」【何ぞ必とせん】。
山、云く、「直に須らく剣を揮うべし【果然】。若し剣を揮はずんば漁父巣に棲まん」【坐するときは則ち仏に非ず】。
僧、挙して石霜(せきそう)に問う、「塵を撥って仏を見る時如何?」【見るときは即ち撥わず、撥うときは即ち見ず】。
霜、云く、「渠(かれ)に国土無し、何れの処にか渠(かれ)に逢わんや」【坐せざるときは即ち仏】。
僧、廻(かえ)って夾山に挙似(こじ)す【往来易からず】。
山、上堂して云く、「門庭の施設(せせつ)は老僧に如かず、
入理(にゅうり)の深談(しんだん)は猶石霜の百歩に較(あた)れり」【各一橛を得たり】。
夾山・・・夾山善会(かっさんぜんえ)(805~881年)。船子徳誠の弟子。35則に出てくる。
石霜・・・石霜慶諸(807~888年)。道吾円智の弟子。道吾円智は雲巌曇晟禅師の実の兄にあたる。
現代語訳
ある時、僧侶が夾山禅師に質問した。「頭の中から煩悩や妄想を除いて仏が見える時はどのような時でしょうか?」【必ずしも煩悩妄想を取り除いて仏を見る必要などない】。
夾山禅師が答えた。「もし仏が見えたら般若の智剣(文殊菩薩が持つ煩悩を切り捨てる智慧の剣)で切り捨てろ!もし、仏を切り捨てなければ仏に殺されるぞ!」【当然の結果だ、そこに居ると思えば妄想】。
この僧侶は夾山禅師の答えに肝を冷やし、他の答えがないか違う寺に行ってみた。
その寺で石霜禅師に同じ質問をしてみた。「頭の中から煩悩や妄想を除いて仏が見える時はどのような時でしょうか?」【仏が見えたら妄想を払えてない証拠だ、妄想が無ければ仏などないだろうに】。
石霜禅師が答えた。「仏に居場所など無い。どこで仏に会おうというのだ。」【そこに居ないと分かれば、それが仏だ】。
その答えを聞いた僧侶は夾山禅師の元へ帰った【ご苦労なこった】。
そして、夾山禅師に石霜禅師の答えを話した。
夾山禅師は良い機会だと思い修行僧達を法堂(講堂)に集めた。
そしてこの僧侶の問答を示した後にこのように言った。「仏法を仮に設定し説くのは私の方が優れていそうだ。だが、仏法の示し方は石霜禅師に遠く及ばない。素晴らしい方だ。まさに、私は智剣を使って妄想も仏も切り捨てる将軍であり、石霜禅師は妄想を離れた仏の威徳を示した皇帝のようだ。」【両者が合わされば完璧だ】。
頌
頌に曰く。
牛(ほし)を払う剣気、兵を洗う威【太平は本是将軍の致】、乱を定めて功を帰す。
更に是れ誰ぞ【将軍は太平を見る事を許さず】。
一旦の氛埃(ふんあい)四海に清し【但凡情を尽くせ】。
衣を垂れて皇化自ずから無為【別に聖解無し】。
牛・・・ウシではなく、星の名前。牽牛星(ひこぼし)のこと、日本では彦星の漢字が充てられる。
氛埃・・・氛は霧のようなもの。塵、砂埃のこと。
現代語訳
夾山禅師は天にある彦星を払い落すほどの剣技を持っている。
殷の紂王を打ち破った周の武王のような優れた将軍だ【天下泰平は将軍の力だ】。
その後、戦の砂埃が晴れて雲の上から帝が羽衣と冠を身に着け世を治めるかのように石霜禅師は無為の人であった【塵も帝も仏も別のものでは無い】。
解説
仏が見えたら切ってしまえとは面白いことを言います。
「仏」が見えると言った時に、仏を何と定義するのかが問題です。しかし、仏教における仏は縁起ですから、言語化することは出来ません。今この瞬間の行為によって保証される存在が縁起です。なので「コップでお茶を飲む男」という現象に於いて、ソファーに寝っ転がりながら片手でテレビを見ながらお茶を飲む時の「コップ」と「男」という存在、喫茶店へ行き友人と話をしながらお茶を飲む時の「コップ」と「男」という存在、茶道のように合掌しコップにもお茶にも自己にも最大限敬意を払い僧堂でお茶を飲む時の「コップ」と「男」は同じ「コップ」と「男」という言語を用いても存在は全く違います。これを「○○」という言語で細分化できるものではありません。「仏」といったときも同じです。「仏」を定義し言語化することに意味はありません。ただただ仏は縁起しているという他ありません。
であれば、「○○」は絶対にどの条件においても「コップ」だ「男」だ、という妄想煩悩を切り捨てた時に「仏」という言葉の意味も同時に消失しています。
夾山禅師は、妄想煩悩を切り捨てれば、同時に仏も切り捨てる事になると僧侶に言います。
今度は石霜禅師が答えます。妄想煩悩を切り捨てれば仏などどこにもいないのだから、見えるはずが無いと。
二人の答えは将軍と帝と呼ぶに相応しいと頌で褒め称えています。
日本の天台宗では四種三昧や千日廻峰などの極限状態で幻覚の仏を見る事を善しとしている一派がいます。只の幻覚妄想を仏の実体と捉えることは縁起からほど遠く外道の行いでしょう。
道元禅師も天台宗平泉寺の近くで、山伏と仏教を混同し山岳信仰による見仏を目指している一派に対して説いたと考えられる「正法眼蔵 見仏の巻」を記している。
道元禅師が言うには。
金剛般若波羅蜜多経に「もし諸相(在り様)と非相(非存在)を見れば、すぐに如来に見える」とある。
この如来に見えるとは、今この瞬間に如来に見えるという行為によって見えるのである。この見えるという行為によって如来が現成するのであれば、自己と現成した如来は他人が現成させた如来と同一ではない。これは如来であると認め、認識を脱落し、活かし、使う時に、日面仏(太陽は姿を変えない)、月面仏(月は毎夜姿を変える)のように、その様相も変化していく。この如来の様相は無限であり、尽きる事が無い。
と示しています。
まさに、応量器を行じる時、掃く時、用便の時、入浴の時、諷経の時、この見仏の縁起を参究させられます。
第六十九則「南泉白牯」
第六十九則 南泉白牯(なんせんびゃっこ)
衆に示して曰く:
仏と成り祖と作るをば汚名を帯ぶとして嫌い、角を戴き毛を披(き)るをば推して上位に居(お)く。
所似(ゆえ)に真光は耀かず、大智は愚の如し。
更に箇の聾(ろう)に便宜とし、不采(ふさい)を佯(いつ)わる底あり。
知らぬ是阿誰(た)ぞ。
角を戴き毛を披る・・・角が生えて毛皮を着ている生物。獣類全般を指す。
便宜・・・自分に都合がいい。
采・・・装飾、才能の意味。
現代語訳
仏に成るという汚名や出世するという不名誉を嫌い、自分は獣達よりも愚かだというように振舞う。
ゆえに神々しくもなく、有難くもない。まさにこの智慧は愚か者のようである。
さらに、この愚かさを理由に、無能のフリをする人がいる。
この人はどんな人だろうか?
本則
挙す。
南泉、衆に示して云く、
「三世の諸仏有ることを知らず【只有ることを知るが為なり】、狸奴白牯(りぬびゃっこ)却って有ることを知る」【只有ることを知らざるが為なり】。
南泉・・・南泉普願禅師(748~834年)。馬祖道一禅師の弟子。
狸奴白牯・・・猫と牛のこと。猫は鼠をとる家畜として扱われてきたため、タヌキのような奴隷という意味で狸と奴の文字が充てられる。ここでは、三世諸仏の対なので凡夫や愚か者、俗人を表す
現代語訳
ある時、南泉禅師が弟子たちに問題を出した。「過去・現在・未来の諸仏と凡夫には大きな違いがある。それは何か分かるか?」
弟子たちは各々考えてみる。(髪の毛の有無だろうか?)(持ち物の多少だろうか?)(住む場所だろうか?)
答えられない弟子たちを見て南泉が言った。「諸仏は仏や悟りや真理が何かを知らない。しかし、凡夫は仏や悟りや真理が概念化された何かだと思いこんでいる。」
頌
頌に曰く。
跛跛挈挈(ははけつけつ)【近からず忙を休む】、㲯㲯毿毿(らんらんさんさん)【人と見ることを喜ばず】、百取るべからず、一も堪うる所なし【門を開いて又軟、火を種えて又湿】。
黙々として自ら田地の穏やかなることを知る【靴裏に指頭を動かす】。
騰騰として誰か肚皮憨(かん)なりと謂(い)わん【呆裏に奸を撒(さつ)す】。
法界に普周(ふしゅう)して渾(すべ)て飯と成す【吐不出咽不下】。
鼻孔塁垂(びこうるいすい)として飽参(ほうさん)に信(まか)す【半ばを抛(なげう)ち、半ばを撒す】。
跛跛挈挈・・・手足が不自由。
㲯㲯毿毿・・・髪の毛と髭がぼさぼさ。
人と見ることを喜ばず・・・付き合いたいとは思わない。
門を開いて又軟、火を種えて又湿・・・手を付けられない様。
肚皮・・・腹の皮。
憨・・・愚痴。
塁垂・・・だらしなく垂れ下がっている。
現代語訳
南泉は手足を用いず【手足を使わないから忙しくない】、髪も髭もぼさぼさで【誰も近づかない】、百を教えてもらおうとしても一も得られない【どうしようもない】。
「知る」も「知らない」も無く心穏やかである。だから求める物も無く、恐れる処も無い。
悠悠自適、自由自在に修行している南泉を見て愚かだと思う人はいないだろう【愚かに見えても愚かでない】。
全ての物事、現象を飲み込んでしまった。満足したのかお腹一杯のようだ。
解説
今回の話は、出家者(実践者)でない多くの学者によって次のように解釈されている。
『この世界に「本質」「真理」「悟り」があることは、三世(過去・現在・未来)の出家者には分からない、しかし猫や牛のような獣はよく知っている。仏法が分かる者よりも、仏法が分からない者の方が、かえって仏の智慧や真理を理解できる。』
私はこの解釈をとらない。
そもそも、仏陀が悟りや真理が何たるかに言及していない。無我であり無常である仏法に照らせば本質や真理は全て後世の人の妄想であり、その妄想を「分かる」「分からない」と論じることは無意味です。
そして、狸奴白牯の言葉は宝鏡三昧にも出てきますが、猫と牛という獣を直接指すものではなく、仏法をよく理解できない者の意味で使われています。であれば、獣が真理をよく理解しているなどという内容にはならないだろう。
まず、示衆ですが、仏や祖師という本来であれば名誉のようなことでも邪魔になると言います。なぜなら私が仏に成ったという時、まず、その「仏」の概念を保証してくれる他の「仏」の存在が必要不可欠です。しかし、仏が何か悟りが何かはよく分からない。であれば概念化された「仏」を指して「仏」に成ったという事はできない。もし、そのように言う人がいたら仏を勝手に概念化し実体視し妄想しているからです。そして悟りや修行や仏を実体視すればするほど、その実体に束縛され仏法から遠く離れてしまう。
このように実体視するくらいなら強く物事を概念化しない獣の方がましである。
なにかの概念ではなく、礼拝するという行為で仏殿が現れ、修行僧が潜るという行為で山門となり、仏飯を作るという行為で典座寮となるように、行為の光が及ぶ範囲で存在が現成する。それが分からない人から見ると行為が愚かに見える。
その愚かに見える行為を徹底して周りを騙す人はどんな人だろう?
というのが今回の公案です。
さて本則です。
いらない語句やエピソードを使って現代語訳しました。道元禅師は三世諸仏は行仏のことであると言います。
三世諸仏は三世諸仏である自覚を知らない。あくまでも仏を行ずる限りにおいて三世諸仏であり、その行ずる時に自らが三世諸仏であるという知覚は入り込まない。そして仏を行ずると言うと仏が明確な行為に聞こえてしまうので、あえて行を仏とするとでも言っておきます。
逆に凡夫や愚者は、私が○○という存在であると知っていると主張する。私には投票する権利がある、私は人間である、私は男である。と概念として自己を認識しそれが絶対正しいと思い込んでいる。つまり、勝手な概念である事を知らずに知っていると主張するのが凡夫であると言います。
道元禅師は行仏威儀と言う時に、自らを縛る概念化(葛藤)も枯れ果て、自らの在り様(樹)もボロボロに解体されていくと示している。難しいことはさておき、不離叢林行仏威儀に徹していきたいものです。
第七十則「進山問性」
第七十則 進山問性(しんさんもんしょう)
衆に示して曰く:
香象(きょうぞう)の河を渡ることを聞く底も、已に流れに随って去る。
生は不生の性なることを知る底も生の為に留めらる。
更に定前定後、笋(しゅん)と作り蔑と作ることを論ぜば、剣去って久し。
爾(なんじ)方(まさ)に舟を刻むなり。
機輪を蹋転(とうてん)して作麼生(そもさんか)か別に一路を行ぜん。
試みに請う、挙す看よ。
香象・・・毛穴から香りのする象。繁殖期の象。とても力強いといわれる。
笋・・・タケノコ。
蔑・・・竹の皮で作った棒を束ねたもの。竹縄。
剣去って久し・・・剣が振り下ろされても目を瞑っているから、とっくに剣が通り過ぎたのに気づかない。
蹋転・・・蹴り飛ばす。
現代語訳
優秀な修行僧は些細なことに心を揺さぶられることは無い。とはいえ、生や死への大きな流れによる苦しみには翻弄されてしまう。
生は不生であるという空を知識として知っていても生きている実感を持ってしまえば生に執着する。
さらに、心を定め何にも動じない修行をしても、心を定める前は半人前で心を定めた後の人生は一人前などと考え、仏道とは程遠い生活を送ってしまう。
船乗りが、水底に剣を落としてしまった。落とした場所が分かるように船に印をつけた。しかし船は動いているから意味が無い。このように、落とした剣に対して無駄な執着をする。過去に剣を落としたからなんだというのだ。
物事の見方を一転させてみよ。違う見方ができるであろう。
試しに、「進山問性」の話をしてやろう。よく聞け!
本則
挙す。
進山主(しんさんしゅ)、脩山主(しゅうさんしゅ)に問うて云く、「明らかに生は不生の性なることを知らば、甚麼(なん)としてか生の為に留めらるるや?」【捩鼻木を照故せよ】。
脩、云く、「筍(たかんな)畢竟(ひっきょう)じて竹と成り去る。如今蔑(たけなわ)と作して使うこと還って得てんや?」【鼻孔他人の手裏に在り】。
進、云く、「汝、向後、自ら悟り去ること在らん」【大小良を圧して賤と為す】。
脩、云く、「某甲、只此の如し。上座の意志如何?」【頭を刺して人の懐裏に向かう】。
進、云く、「這箇(しゃこ)は是監院房(かんにんぼう)、那箇(なこ)は是典座房(てんぞぼう)」【毬子を打得して別処に去る】。
脩、便ち礼拝す【且く好心相待つことを作す】。
進山主…清渓洪進禅師。地蔵桂琛(じぞうけいちん)の弟子。詳細は不明。
脩山主…龍済紹脩(りゅうさいしょうしゅう)禅師。地蔵桂琛(じぞうけいちん)の弟子。詳細は不明。12則、17則、30則に出てくる。
捩鼻木・・・牛の鼻の穴に通してある木。
大小・・・すこぶる。はなはだ。非常に。
監院房・・・監院という寺務の全てを司る役職の居室。
典座房・・・典座という台所を司る役職の居室。
現代語訳
ある時、進山主と脩山主という兄弟弟子がいた。
進山主が脩山主に質問した。「『空』だ『不生不滅』だという内容のお経を読み、意味を理解しても実際は目の前の自分の人生に執着し、死を恐れてしまう。仏法として、執着は良くないと理解しても、生活の上で何の役にも立たない。いったいどうしたら良いのだろうか?」【鋭い質問だ、油断するな!!】。
脩山主が答えた。「筍も成長して竹になれば様々な使い道が出てくる。しかし、筍の状態ですぐに竹縄として使う事は出来ない。このように物事には順序がある。道理が分かっていても修行生活に活かせるかどうかは別問題だ。」【答えを誘導されているようだぞ?】。
進山主が言った。「ふむふむ、脩山主は修行の結果、いつか悟ることが出来るであろうな~~~」【進山主の言い方は脩山主を馬鹿にしている(笑)】。
進山主の軽口に対して、脩山主は「私の見解は今言った通りであるが、あなたの意見はいかがであろうか?」と真面目に切り返して来た【脩山主は我を捨てて進山主の懐に飛び込んだ】。
進山主は「あちらが監院(事務長)の部屋で、あちらが典座(料理長)の部屋だ。どうだ!分かったか!!」【意外な答えを言った】。
脩山主は、進山主の答えを聞き、五体を大地に預け、深々と礼拝した【今後の活躍に期待しよう】。
頌
頌に曰く。
豁落(かつらく)として依(え)を亡じ【繫驢橛を抜翻す】、高閑にして覊(ほだ)されず【黄金の鎖を掣断(せいだん)す】。
家邦平帖(かほうへいちょう)到る人、稀なり【穏処には脚を下す】。
些些(ささ)の力量階級を分かつ【強いて節目を生ず】。
蕩蕩(とうとう)たる身心是非を絶す【怪を見て怪とせざれば】。
是非絶す【其の怪自ずから壊れる】。
介(ひと)り大方(だいほう)に立って軌轍(きてつ)無し【太平忌諱無し、何れの処か風流ならざ】。
繫驢橛・・・ロバを繋ぐための杭。
黄金の鎖・・・ここでは悟りのこと。
蕩蕩・・・広大で平らな様。
大方・・・世界。
軌轍・・・よく車が通る車輪の痕。ここでは一定の規則や形式という意味。
現代語訳
広く何にも依るところが無い高原のように【ロバを繋ぐ杭も無い】、あらゆるしがらみからも解き放たれた生涯がここにある【悟りというしがらみも無い】。
このように平穏な生活を送れる人は稀である【ちょっとでも平穏な所に足を下ろしてみるがいい】。
脩山主は生と不生、滅と不滅、活と不活という句分を勝手に設定してしまった【本来は区分など無い】。
進山主は境界を持ち込まず是非を超越した【珍しい物を珍しく扱わなければ珍しくない】。
一切の是非が尽きている【モナリザに高い価値を付けるのは是非を考えているからだ、見方によればただの板だ】。
もし、世界に自分1人しかいなかったら、悟りとか迷いとか、高価とか低価とかの区分を設けるだろうか?【1人であればファッションも所有物もなく真っ平である】。
解説
僧侶や仏教者には様々な方がいます。論師と呼ばれる仏教を学問かのように理論立てて考える人、律師と呼ばれる戒律を守ることに固執する人、仏道を歩む気も無いのに僧侶のふりをするコスプレイヤーなどなど。
そんな人たちが、ぶつかる壁がある。それは、どんなに理論立てて生死の苦しみを考え解脱の方法を論じても、戒律を厳しく守り暮らしても、結局のところ生きる上での人間関係の苦しみや生への執着が消えないということです。試しに僧侶の頭に拳銃を突きつけてみてください。怖くないし、生に執着しないし、心が全く動かないなどという僧侶はいません。いたらそれは人間ではなく植物か死体です。
そのような生への執着はどのように解決するのか、そして解決できる問題なのか?今回はそんなお話です。
本則では進山主が脩山主に試すかのように聞きます。
「頭で生への執着は苦しいと理解し、執着から離れなければいけないと思いはするが、執着は消えない。どうすればよいか?」
すると脩山主はタケノコと竹の例えを持ち出します。
竹を割いて組んで柵を作ったり、竹の繊維で縄を作ることが出来る。しかし、タケノコの時は何も作ることが出来ない。仏道も同じく理解し実践し継続して、その結果、生活の中で執着が消える悟りが手に入る。と主張します。
その答えを聞いた進山主はめちゃくちゃバカにします。「へ~~~そうなんだ~~~。脩は理解し実践し継続した結果、いつか悟りを開けるね~~。よかったね~~~」
12則の地蔵種田でもわかるように、脩は頭が固く、理屈で考える人です。
この進山主の茶化した返答に対して、真面目に理屈っぽく返します。
「え?私はそのように考えますが、進山主はどのように考えるのですか?」
すると進山主は「あちらが監院寮で、あちらが典座寮だ。どうだ!分かったか!!」と言います。
そして脩は礼拝する。素直ですね。
進山主の答えは、こういうことです。
監院寮は監院が寺務仕事をしている時のみ、監院寮として現成する。典座寮は典座が典座として修行僧の食事に心を巡らし料理をしているときにのみ典座寮として現成する。あらかじめ「監院寮」とか「典座寮」の看板が掲げられているから「監院寮」でり「典座寮」であるわけでは無いのだ。ということです。
僧堂も僧侶が菩薩や祖師にならって行住坐臥を行じるから、その瞬間のみ僧堂であり、山門も修行僧が出入りするその瞬間のみ山門である。
寺も、先祖供養し寺の看板を掲げているから寺であるわけではなく、出家者が4人以上集まり修行を行う瞬間のみ寺として現成する。
であれば、知識として空を理解し、不生不滅の理論に納得している瞬間の自己の在り様は、ただただ理解している自己、納得している自己でしかなく、執着を離れた自己ではないということです。
執着を離れた自己は自己にも執着していないので執着を離れたという実感もなく、悟りを目指しているわけでも無い。日常の中でその実践をしているその瞬間のみ仏であり、その行為に保証される悟りなのです。今の行為に対する仏であるから即身是仏というのです。
袈裟を着けている人がお金にがめつかったり、性風俗で豪遊したり、高級車を乗り回すと、「僧侶のくせに!!」と言う人がいますが、間違いです。お金にがめつくなっている瞬間はどんな格好をしていようが守銭奴であり僧侶ではありません。性風俗で遊んでいても高級車に乗っていても、遊んでいる瞬間、乗っている瞬間は僧侶ではありません。性風俗から出て高級車から降りた瞬間に禅定に入り、生にも死にも執着せず過去にも捉われなくなった時、僧侶となるのです。
また、理屈に執着している時も僧侶ではありません。スッタニパータにある出家者(バラモン)の条件に当てはめればですが。
現代でも理屈で考え、理論立てて「これこそが仏教」「仏教徒はこの理論を知っていなければいけない」などと執着している輩が散見されます。是非、地蔵種田や進山問性を参究し叢林に浸かっていただきたいですね。