従容録の自己流解説「31則~40則」
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以下の点を読み解いていく為の軸とします。
1,自己の本質や自己そのものが単一で存在しない
これは、自己の存在認識が二元論的に自分と他人の対比による言語化された虚構の概念であるから。
2,「悟り」や「真理」という言葉に根拠を持たない。
仏陀は悟りについて具体的に経典で言及していない。あくまでも悟ったと言う経験談を語っているに過ぎないので「悟り」が何かを定義しない。
3,人権や道徳、倫理に関わる問題はそのまま読み進める。
ジェンダー、身分、職業、暴力、身体的障害等は現代の感覚とかけ離れているが、あくまでも当時の感覚と捉え気を悪くせず受け止めていただきたい。
4,本則の漫画のみを読み解くと読み手の自由な解釈が無限に出てくるため、
宏智正覚禅師と万松行秀禅師が何を狙ってエピソードを取り上げたかにフォーカスして読み解く。
目次
- ○ 第三十一則「雲門露柱」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第三十二則「仰山心境」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第三十三則「三聖金鱗」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第三十四則「風穴一塵」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第三十五則「洛浦伏膺」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第三十六則「馬師不安」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第三十七則「潙山業識」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第三十八則「臨済真人」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第三十九則「趙州洗鉢」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
- ○ 第四十則「雲門白黒」
- ・衆に示して曰く:
- ・本則
- ・頌
- ・解説
第三十一則「雲門露柱」

第三十一則 雲門露柱(うんもんろちゅう)
衆に示して曰く:
向上の一機。鶴、霄漢(しょうかん)に沖(ひひ)る。
当陽の一路。鷂(たか)、新羅(しんら)を過ぐ。
直饒(たとい)、眼、流星に似たるも、未だ、口は扁擔(へんたん)の如くなることを免れず。
且く道(い)え是れ何の宗旨ぞ。
霄漢・・・大空。
当陽・・・当面。目の前。
鷂・・・俊敏な鷹。
新羅・・・朝鮮半島。ここでは、ものすごく遠くという意味。
口は扁擔の如く・・・への字の口。口をつぐんだ時の様。
現代語訳
心の働きや物事の認識は、鶴が大空を高く飛びあがり見えなくなってしまうように、また鷹が目の前の道を遠くまで真っすぐ飛んでいき見えなくなってしまうようなものだ。
目の前の出来事を認識した時に、どんなに動体視力がよくても言語化できるものではない。
さて、この意味がわかるだろうか?
本則
挙す。
雲門、垂語して云く、「古仏と露柱と相交わる。是れ第幾機ぞ」【七に落ち八に落ち了る】。
衆、無語【却って露柱と同参】。
自ら代って云く、「南山に雲を起こし、北山に雨を下(ふら)す」【張翁酒を喫して李翁酔う】。
雲門・・・雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師(864~949年)。
垂語・・・修行僧へ指導者が与える言葉。
露柱・・・露わになっている柱。仏殿や法堂の柱のこと。
張翁酒を喫して李翁酔う・・・張が酒を飲めば李が酔っ払う。2人が1人のように親密な様。
現代語訳
ある時、雲門禅師が修行僧に言った。「古仏がそこの柱と仲良くイチャイチャしている。この認識は何段階目の認識作用であろうか?」【七番目だと思えば八番目に落ちてしまう。永遠に何番目などとは分かりはしない】。
修行僧は皆黙っていた【黙っていては修行僧も露柱も同じだ】。
雲門禅師は誰も答えないのを見て、代って自分で答えた。「南山に雲が出てくれば、北山で雨が降る」【張さんが酒を飲むと李さんが酔っ払う】。
頌
頌に曰く。
一道の神光【上天を拄え下地を拄える】、初めより覆蔵(ふぞう)せず【浄裸裸赤灑灑】。
見縁を超ゆるや是にして是なし【烈火陥中眨眼することを休めよ】、情量を出ずるや当たって当たることなし【剣輪鋒外頭を廻らすこと莫れ】。
巌華(がんげ)の粉たるや、蜂房(ほうぼう)蜜を成し【神通広大】、野草の慈たるや、麝臍香(じゃさいこう)を作す【変化無方】。
随類(ずいるい)三尺、一丈六【主山は高く案山は低し、拄杖は長く払子は短し】、明明として触処露堂堂【面門を拶破して廻避するに処無し】。
見縁・・・見るもの(能見)と見られるもの(所見)の対立を表す。
情量・・・情識思量、妄想分別のこと。
麝臍香・・・ジャコウジカというヘソの下から香りを出す鹿に似た動物の香り。現在は乱獲されている為、保護対象になっている。
随類三尺、一丈六・・・小さい仏も認識作用や心の動き次第で大きな仏として見ることが出来る。
面門を拶破して・・・目の前に差し迫る。
現代語訳
一条の光明【世界中に充満した光だ】、覆い隠す事は出来ない【素っ裸で隠せない】。
物事を認識するとき、見た物体と見ている私という二元論を超えている。であれば光を見た時に、それが光である根拠はどこにも無い【烈火の中で目を開け目が焼けてしまう。目で見る事を止めよ】。
妄想分別を超えているからこそ、仏法に実体も無く、「これが仏法だ」と認識できるものも無い【ブンブンと刃を振り回している人に頭から突っ込んでいったら首が切れてしまう】。
蜂は花の香りを損なわずに蜜を採ることが出来る【人間からすると常識外れだ】。ジャコウジカは草を食べて香りを出すが、草の味が変わるわけでは無い【無限に変化する】。
小さなモノも心の働き次第で大きく捉えることが出来る【高低長短、曲がるも真っすぐも大小も、全てが古仏の存在そのものを表す】。
存在に根拠が無いからこそ、「そのもの」は「そのもの」以外の認識が出来ず、自己の態度で何モノにでもなるからこそ堂々とそこに現れる【目の前に差し迫ってくる、存在の在り様は避けようが無い】。
解説
禅宗のお寺は正面に仏殿(本堂)、右側に土地堂という土地神を祀るお堂、左側に祖師堂という歴代の僧侶(古仏)を祀るお堂を建てます。小さいお寺や葬式や法事のみに傾いているお寺は本堂内に簡略的に設置されているだけですが、修行道場として確立している本物のお寺は左右にしっかりとお堂があります。
今回の話は、おそらく古仏を祀る祖師堂でのことでしょう。この祖師堂を見た時に、お堂それ自体が古仏を祀る場所であれば、柱一本も古仏を現すであろう。お堂を建てた時から祖師堂であったわけでは無く、祖師堂として古仏に礼拝するという行為をした時だけ限定的に祖師堂になる。その祖師堂の柱一本が古仏として存在が現成する瞬間、視覚情報から「古仏だ」と認識するまでに何段階の心の働きがあったであろうか?という問いかけです。
モリヌークス問題でも取り上げましたが、我々が五感で認識した時、「これは黒い」「これは丸い」「これは柔らかい」という判断は赤ん坊の時から多くの訓練を重ねて色形等を概念化して判断されます。視覚情報しか存在しない赤ん坊は物の境界線を引く訓練をしていないのでこの物質は丸いという事もわかりません。分からないからこそ「いないいないばあっ!」が成立するのです。赤ん坊はいないいないばあっ!で急激に景色が変わったと錯覚します。
物事の境界線を引く訓練をした大人にいないばあっ!をすると馬鹿に見えます。
つまり、多くの認識作用の段階を経て、今ここにモノが在ると分かるわけです。
本則に「第幾機ぞ」とあります。機というのは、認識作用が木の枝葉のように複雑に分岐している様を表し、認識作用の段階を在らあします。例えば、赤い物体を見た時に、我々は対象物によって様々な反応を示します。赤信号を見れば、危険だ、車が来るから立ち止まろうと思います。トマトの赤を見れば美味しそう、今日の料理に使おうかな、などと考えます。炎の赤を見れば、熱い、やけどする、料理に使う、火事に気を付けようと思量します。もっと言えば、目の前に無くても火の事を考えてください、トマトの事を考えてください。と言われれば考えてします。
一つの視覚情報をとってもあらゆる認識作用が発動します。これらは意識して止める事は難しいと言われています。
有名なシロクマ実験です。被験者を2グループに分けて、それぞれにシロクマの映像を見せます。その後、何もない部屋でAグループにはシロクマについて考えてください、と伝え、Bグループにはシロクマについて考えないでくださいと伝える。するとBグループの方がシロクマについて考える時間が多かったと言います。
思量するかどうかは我々の無意識下で行われます。
今回の雲門禅師の問いかけは古仏と柱が抱き合っている時、我々の認識作用はどうだ?と問いかけている。
ありえないなんてことはあり得ない。どのように認識するかは自由自在であるから。その事を示すために雲門禅師はまた自ら南の山で雲が出たら北の山で雨が降るというあり得無さそうな話をまた持ち出した。
第三十二則「仰山心境」

第三十二則 仰山心境(ぎょうざんしんきょう)
衆に示して曰く:
海は竜の世界であり、隠顯優游(おんけんゆうゆう)。
天は是れ鶴の家郷、飛鳴(ひめい)自在。
甚麼(なん)としてか困魚(こんぎょ)は濼(れき)に止まり、鈍鳥は芦に棲む。
還って利害を計る処ありや。
濼・・・水溜まり。
芦・・・丸見えの場所の例え。
現代語訳
海は龍が悠々自適に泳ぎ回るから海として現成している。
空はツルが自由自在に飛び回るから空として現成している。
愚かな魚は水溜まりの中で身動きが取れなくなっている。
鈍い鳥は天敵から丸見えの場所でくつろいでいる。
人間も同じく、自分の行為が及ぶ範囲は自己こそが主人公であるはずである。
なのに、思い通りにいかないと嘆き悲しんでいるのは、思い通りにいく余地が行為が及ぶ範囲外にあると思い込んでいるからであろう。
本則
挙す。
仰山、僧に問う、「甚れの処の人ぞ?」【門を閉じて刷会す】。
僧云く、「幽州の人」【公験明白】。
山云く、「汝彼の中を思うや?」【恰も忘れ了るを待つ】。
僧云く、「常に思う」【熟処忘れ難し】。
山云く、「能思(のうし)は是れ心、所思は是れ境【元来、更に能所を立つ】。彼の中には山河大地(せんがだいち)楼台殿閣(ろうだいでんかく)人畜(じんちく)等の物あり、
思底の心を反思せよ。還って許多般(こたはん)ありや?」【仁者は自ら分別を生ず】。
僧云く、「某甲(それがし)、這裏(しゃり)に到って総に有ることを見ず」【猶這箇(しゃこ)有り】。
山云く、「信位は即ち是、人位は未だ是ならず」【庭前の残雪は日輪消す。室内の紅塵は誰をして掃わしめん】。
僧云く、「和尚別に指示有ること莫しや?否や?」【便ち恁麼にし来たる】。
山云く、「別に有り、別に無しというは即ち中らず【両重の関を射透す】、汝が見処に拠らば只一玄を得たり【已に舡中の月有り】、
得坐(とくざ)披衣(ひえ)向後自ずから見よ」【更に帆上の風を添う】。
仰山・・・仰山慧寂(840~916年)。爲山霊祐禅師の弟子。
門を閉じて刷会す・・・刷会は毎月末の決算のこと。門を閉めて総勘定するように、仰山禅師が弟子たちを点検すること。
幽州・・・河南省の北部。北京付近。
仁者は自ら分別を生ず・・・維摩経に出てくる文言。仁者はというのは貴方はという意味。それはあなた自身の妄想分別というものだよという意味。
現代語訳
ある時、仰山禅師が修行僧に「君はどこの出身だい?」と聞いた【仰山禅師はこの僧侶をじっくり吟味するようだ】。
僧侶は「幽州の生まれです」と答えた。
仰山禅師は「ほぉう。では君は故郷の事をよく思い出すかね?」と聞いた【忘れる事を期待しているのだろう】。
僧侶は「いつも思い出します」と答えた【住み慣れた場所は忘れにくい】。
仰山禅師は「君が故郷を思い出すのは自身の心の働きであろう。思い出される故郷、幽州は河や山、建物、人など様々な形を成しているだろう【主観客観を打ち砕きたいのだろうか】。幽州の河を思い出す人もいれば、山を思い出す人もいるし建物が印象に残っている人も友人の事を懐かしんでいる人もいるだろう。この思うという心の働きはよくよく観察してみなさい。沢山の対象物を思い出す心も沢山あるのだろうか?」と聞いた【それはあなた自身の妄想分別であろう】。
僧侶は「心の働きを数えようと思っても心は見えません」【見ないという見方もあるぞ】。
仰山禅師は「心が見えないと言うことは分かっているようだ。しかし、それでは不十分だ。分かったつもりになってはいけない」【庭に積もった雪は太陽の熱が消してしまうが、室内のゴミは掃除しないといつまでも残っている。】と言った。
僧侶は「分かったつもりを打ち砕く為に、何か私に示してくださるのですか?」と聞いた。
仰山禅師は「提示できる仏法が有るとも無しとも言わないぞ。有り無しを論ずればかえって仏法の本分から外れてしまう。袈裟を掛けて坐禅してきなさい。」
頌
頌に曰く。
外るること無うして容れ【大として包ねざる無し】、礙(さ)ゆること無うして沖(ひひ)る【細として入らざること無し】。
門牆岸岸(もんしょうがんがん)【探頭すること莫くんば良し】、関鎖重重(かんさじゅうじゅう)【弾指を消(もち)いず】。
酒常に酣(たけなわ)にして客を臥す【喚び醒し来れ打たん】、飯は飽くと雖も農を頽(たい)す【一坑に埋却せん】。
虚空に突出して、風、妙翅(みょうじ)を搏(う)ち、【碧落の天を穿開す】
滄海を踏翻(とうほん)して、雷、游龍(ゆうりゅう)を送る【驚蟄二月の節】。
探頭・・・頭を突っ込む。
弾指・・・指パッチン。曹洞宗ではトイレに入る時ノックではなく指パッチンで入っているかの確認をする。もし扉が最初から開いていればその必要は無い。
酒常に酣にして客を臥す・・・法華経の話。ある日、友人と酒を飲んでいた。すると友人が酔いつぶれて寝てしまった。翌朝、自分は役所に行かなければならないので、酔って寝ていた友人の枕元に宝石を縫い付けてやった。そして別れた友人は生活費をくれる友人が居なくなって浮浪していた。ある時、縫い付けてある宝石に気付くという話。宝物は身近にあるという逸話。
妙翅・・・ガルーダという神話に出てくる鳥。龍を捕食する鳥として登場する。
現代語訳
自己の心で物事を思い出すときは、鏡のように全てを心に映しだすことができる【全部入る】。
思う心と思われる対象物という二元論で自ら巨大な門を築き上げてしまっている【頭から突っ込むと危ないよ】。
何重にも鍵がかけられている【実はその門は開いているので、あえて開けようとすつ必要はない】。
酒を飲んだ友人が眠り、枕元にある宝物に気付かないようなものだ【叩き起こせ】。
怠け者のように惨めになってしまう【穴を掘って埋めてしまうぞ】。
仰山禅師の指導は火の鳥が大空で翼を広げ、龍が雷を鳴らしながら飛び回っているようだ。
解説
示衆についてです。龍と鶴は優れていて立派な生き物であり、困魚(小魚)や鈍鳥は愚かな生き物の例えです。
これは、優れているから水溜まりではなく海で泳げるんだぞという意味ではなく、泳ぐ水と自己を二元論で対比して認識していると水溜まりのように、自己の認識が及ぶ範囲すらも見誤るという意味でしょうか。
今回の話のポイントは、「思う私」と「思われる対象物」です。
詳しくは唯識論や空観派の主張を説明しなければならないので割愛します。ここでは、ざっくり説明します。
例えば、消しゴムを見た時に、「あ、消しゴムがある」と思う。そして、特に説明書もなく、手に持って鉛筆で書いた文字を消すことが出来る。
ドアノブを見た時に、説明書が無くても捻って開けるんだなと分かる。これらは、「消しゴムを見る私」と「消しゴム(対象物)」の二元論的に解釈され、「私が消しゴムを使う」という現象として言語化される。「ドアノブを認識した私」と「ドアノブ(対象物)」の二元論的に「私がドアノブを捻る」と言われる。
ここで「思う心=消しゴムの判断」「思われる対象物=消しゴム」となる。すると、消しゴムは文字を消すという行為が行われる前から消しゴム以外の可能性を勝手に排除されている。最近、テレビで消しゴムハンコなるアートが放送されているが、消しゴムなのかハンコなのかは「思う心」次第です。
この時の心を縁起的に見ていくと、消しゴムが予め消しゴムとしてあるわけでは無く、「消しゴムがある」という判断と態度からの文字を消すという行為によって「消しゴムを使う私」という存在が現成する。この時に、「思う心=私」と「思われる対象物=消しゴム」は二元論ではなく一つの現象、一つの存在「消しゴムを使う自己」として現れる。これは消しゴムを消しゴムとして扱っている間のみ限定的に現れる前後裁断された存在です。
しかし、消しゴムやドアノブという限定的なものではなく、「筆箱の中身」や「家」を思い浮かべる時、鉛筆消しゴムシャーペン等の事を思い浮かべ、玄関リビング台所ベッドを思い浮かべる。思われる対象が沢山ある時、思う心も沢山あるのかどうか。
このことを踏まえて、本則を見ていきます。
「故郷の事を思っているか?」という質問は「故郷を思い出す私」と「思い出される故郷」を軸に質問がされています。
そして、「私は故郷を思い出します」と答えます。しかし、「故郷」とは幽州の河、や山や家などの様々な要素を含んで故郷です。普通この客観的「故郷」と主観的「思い出される故郷」は同一ではないと言えます。思う主体である「私」と思われる客体である「故郷」が同一でないのは当たり前のように聞こえます。
縁起の観点から見ると客観的な「幽州」を思い出しているわけではなく主観的な「幽州」もっと突き詰めて言えば「(主観的)幽州を思い出す自己」の存在が限定的に故郷を思っている瞬間だけ存在していることになります。
なので、客観的な「幽州」というものは存在のしようが無いのです。客観的な「○○」客観的な「仏法」が分からないのに、どんな指導をしてくれるのでしょうか?と聞けば、指導方法が有るとも無いとも言えない。「仏法」に実体が無いのであれば「指導方法」にも実体がないのであろうか。とりあえず坐禅してきなさいと言われてしまう。
頌で示されているように主観的「幽州」は自分の態度によって現成するので自己の心を満遍なく映し出すことが出来ます。
そして、「思い出された故郷」が自分に関係なく、遠い地で存在していると考えてしまうと二元論に捉われてしまう。酔っぱらった人が襟に縫い付けた宝物に気付かないように、「思い出された故郷」は実は自分の存在と1体となって現れているのです。
第三十三則「三聖金鱗」

第三十三則 三聖金鱗(さんしょうきんりん)
衆に示して曰く:
強に逢うては即ち弱、柔に遇うては即ち剛。
両硬相撃てば必ず一傷有り。
且らく道え如何が廻互(えご)し去らん。
廻互・・・二つのモノが衝突しない。ここでは、折り合いをつけるという意味。
現代語訳
強く出てくれば弱く対応する。柔らかくくれば勇ましく対応する。
堅い者同士がぶつかり合えば両方とも無傷では済まない。
では、どのように折り合いをつければいいだろうか。
本則
挙す。
三聖、雪峰に問う、「網を透る金鱗(きんりん)、未審(みぶかし)、何を以ってか食とせんや」【綸を垂れることを待たずして、自ら鉤に上る】。
峰云く、「汝が網を出で来たらんことを待って汝に向かって道(い)わん」【人に逢うて且く三分の話を説け】。
聖云く、「一千五百人の善知識、話頭も也(また)識らず」【霊山の授記も也今日に似かず】。
峰云く、「老僧住持事繁し」【脳後に腮を見る】。
三聖…三聖慧然禅師。臨済義玄禅師の弟子。仰山慧寂、香厳智閑、徳山宣鑑、雪峰義存にも歴参した。
雪峰・・・雪峰義存(せっぽうぎそん)禅師(822~908年)。徳山宣鑑禅師の弟子。
金鱗・・・金光の鱗をもつ魚。輝く法身の現成を表す。
住持・・・祖庭事苑(1100年刊行)という書物に「仏法を持ち、この仏法を使って住し、仏法を滅ぼさない力量」とある。仏法を永住護持する力量がある人の事。一山一寺の主が出来る人のこと。住持の職を住職という。
脳後に腮を見る・・・後ろから人を見た時に頬骨が出て見えるのは悪人相であるという噂。ここでは、雪峰禅師の油断ならない事を表す。
現代語訳
三聖が雪峰禅師に質問した。「悟りを得た人はどんな生活を送れば良いでしょうか?」【釣り糸が垂れる前に自ら食いついてきた】。
すると雪峰禅師は「ほっほっほ、君が本当に悟ってきたらその時に教えよう」【軽く受け流すように見えて三聖の頭を引っ張り出した】と答えた。
三聖は「あなたは1500人の修行僧を指導する方なのに答えられないのですか?」【ブッダへの質問もいつも優しいものでは無かった】と切り込んだ。
雪峰禅師は「いや~~、住職の仕事も忙しいからね~~。また今度お話しようね」【優しそうなことを言っているが油断ならない】とどこ吹く風といった調子で答えた。
頌
頌に曰く。
浪級(ろうきゅう)初めて昇って雲雷相送る【天の到らざることを恨む】。
騰躍稜稜(とうやくりょうりょう)として大用(だいゆう)を見る【速礼三拝】。
尾を焼いて分明に禹門(うもん)を度る【急に眼を著けて看よ】。
華鱗未だ肯(あ)えて韲甕(さいよう)に淹(えん)せられず【更に候黒有り】。
老成(ろうせい)の人、衆を驚かさず【妥妥帖帖、穏穏当当】。
大敵に臨むに慣れて初めより恐れることなし【辱を受くること栄の如く、死を視ること生の如し】。
泛泛(へんぺん)として端に五両の軽きが如し【遠く観れば不審】。
堆堆(たいたい)として何ぞ啻(ただ)千鈞(せんきん)の重きのみならん【近くみれば分明】。
高名四海復(ま)た誰か同じからん【天上に月を揀ぶ】。
介(ひと)り立って八風吹けども動ぜず【恰も曽てせざるに似たり】。
浪級初めて昇って雲雷相送る・・・禹門三級の門。夏の王である禹は黄河の治水工事でダムを作った。そのダムは三か所河をせき止め三段の水を溜める場所を作るダムであった。その三段のダムを鯉が昇りきると龍になるという伝説が出来た。このことから禹のダムは登竜門と呼ぶ。その登竜門を鯉が昇り龍になる時に雷が鳴るという。
尾を焼いて・・・登竜門を超えた龍は雷によって尻尾が焼かれるという伝説。
華鱗・・・金鱗と同じ。ここでは鯉。
韲甕に淹せられず・・・韲甕は和え物を作る甕のこと。つまり食材をぐちゃぐちゃ混ぜる甕のこと。綺麗な魚は綺麗なまま調理されるので韲甕に入れられることは無い。三聖が雪峰禅師に韲甕へ押し込められることを免れたという意味。
更に候黒有り・・・さらに上手の盗賊がいる。
泛泛・・・ひらりひらり。
五両の軽き・・・風車の重さが5両であったことから風車のこと。ここでは5両の風車の羽。
八風・・・利、衰、毀、誉、称、譏、苦、楽のことで、人を動揺させるもの。
現代語訳
三聖が自分で悟ったと言って立ち向かったのは勢いがあって結構だが、雪峰禅師の対応も見事であった。
尻尾を焼いて天に登る龍のように立派だ。
綺麗な鯉だなどと雪峰禅師に言われて丸め込まれなかった三聖も見事である。
三聖の元気な若さに比べ雪峰禅師は年老いている。雪峰禅師は少しも他の修行僧を騒がせることはない。
なぜなら幾度も手ごわい相手に挑み百戦錬磨であるからだ。
軽い風車の羽が風に従ってひらりひらりと回るように、大きな山が押しても決して動かないように剛柔強弱を究めている。
雪峰禅師の名は世界中に轟き、知らぬものはいないだろう。どんなに心を乱す風が吹こうとも微動だにしない方である。
解説
三聖は13則「臨済瞎驢」にも出てきました。臨済禅師は気性の荒い方であったといいます。13則でも師匠である臨済禅師に喝を入れています。三聖もオラオラしてる人だったのでしょうか。
それを雪峰禅師はのらりくらしとかわし、強情な態度の三聖に柔軟な態度をとり続けます。
雪峰禅師もかつては気性が荒く、それを見かねた師匠から同じく激しい気性の徳山禅師の元で修行してこいと言われます。そこで剛柔、強弱を弁えてきたのでしょう。
人間関係において、これだけは譲れないと思い強情になり衝突することが多くあります。
仏教ではそれは思い込みだと言いますが、思い込みだと思えれば苦労はしません。
まぁいっかとスルーするスキルや相手と折り合いをつけるスキルはどこにいっても重要になってくるでしょう。
第三十四則「風穴一塵」

第三十四則 風穴一塵(ふけついちじん)
衆に示して曰く:
赤手空拳(せきしゅくうけん)にして千変万化す。
是、無を将(も)って有と作すと雖も、仮(け)を弄して真に像(かたど)ることを奈何(いかん)せん。
且(しばら)く道(い)え還って基本有りや也(また)無しや。
現代語訳
僧侶が仏道を示そうとする時、相手の人となりや状況、相手の心によって臨機応変、変化自在に行う。
これは、全ての物事が実体根拠を持たないとはいえ、仮に設定されたエピソードや存在を示しながら、その時の存在を現成させている。
では、この仮に設定された存在を示そうとする時、仮のモノが真実を表す基本や軸となるものがあるのだろうか?
本則
挙す。
風穴(ふけつ)、垂語して云く、「若し一塵を立すれば家国興盛す【之を得れば本有り】。一塵を立せざれば家国喪亡す」【之を失えば本無し】。
雪竇、柱杖を拈じて云く【是立か不立か】、「還って同死同生底の衲僧有りや?」【無しとはいわず、只是少なし】。
風穴・・・風穴延沼(ふけつえんしょう)禅師(896~973年)。南院慧顒(えぎょう)の弟子。
雪竇・・・雪竇重顕(980~1052年)。雲門文偃禅師の曾孫弟子。碧巌録の作者。
現代語訳
ある時、風穴禅師が修行僧に「もし、ちょっとでも分別や妄想を用いて物事を見れば家柄や自己の利益に執着してしまう【妄想分別を用いてと言っても元から有り、新たに用いたものでは無い】。完全に分別や妄想を断ち切ってしまえば、貧も富も損も益も苦も楽も無くなってしまう【妄想分別を用いないのなら元からそこには無いのであろう】」と示した。
それから数年の月日が流れ、その風穴禅師の言葉を雪竇が取り上げて錫杖を持ちながら言った。「ここに生と死という二元論ではなく、生死一元にして妄想分別の無い修行僧はいるか?」【まったくいないとは言えないが少ないだろう】。
頌
頌に曰く。
皤然(はぜん)として渭水(いすい)に起こって綸(りん)を垂れる【老いて心を欠(や)めず】。
首陽清餓(しゅようせいが)の人と何似(いずれ)ぞ【少うして努力せず】。
只一塵に在って変態を分つ【拄杖を拈起して云く看よ】。
高名勲業(こうみょうくんごう)、両(ふた)つながら泯(みん)じ難し【拄杖を放下して云く、雪竇猶在り】。
皤然・・・白髪。
渭水・・・黄河に合流する河。周の文王が渭水で釣りをする太公望を軍師に誘い殷を倒した故事による。
老いて心を欠めず・・・年老いても太公望は国政への意欲が衰えなかったこと。
首陽清餓の人・・・山西省水済県の南になる山を首陽という。清餓は清廉潔白で餓死した人。伯夷伝の故事の事。
伯夷が長男、叔斉は三男である。父の亜微から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国主不在で困った国人は次男の仲馮を主君に立てた。
流浪の身となった兄弟は、周の文王の良い評判を聞いて周へ向かった。しかし、周に到着したときにはすでに西伯は亡くなっており、息子の武王が、太公望を軍師に立て、悪逆で知られた殷の紂王を滅ぼそうと軍を起こし、殷に向かう途中だった。兄弟は道に飛び出し、馬を叩いて姫発の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り兄弟を殺そうとしたが、太公望は「手出しをするな!正しい人たちだ」と叫び、兄弟を去らしめた。
戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、兄弟は周の穀物を食べる事を恥として周の国から離れ、首陽山に隠棲してワラビやゼンマイを食べていたが、最後には餓死した。
現代語訳
白髪の太公望は河で真っすぐな針で釣りをしていて、名誉や利益を得ようとは一切思ってはいなかった。周の文王に誘われて釣り竿を置き、国を興した。
つまり、「一塵を立すれば家国興盛す」である【白髪になっても意欲が衰えていない】。
伯夷と叔斉の兄弟は清廉潔白を貫き首陽山で餓死した。つまり「一塵を立せざれば家国喪亡す」である【若いのに意欲がない】。
さて太公望と伯夷叔斉に優劣はあるだろうか?
周の武王に対して太公望は国を興させ、伯夷兄弟は咎めた。一塵を立てるか立てないかで分かれた。そして、一方は国を興し、一方は国を滅ぼした。その本質は異なるか、それとも同じであろうか。
太公望の功績も、伯夷兄弟の名声も今に伝わっている。両者に優劣は無い【錫杖を振って我ここに在りと言い、また錫杖を投げ捨てて我ここに在りと言う。同一の存在では無いが共に存在を現している】。
解説
この話は妄想分別を持ち込んで物事を勧める事の是非の是非を問いかける問答になります。
是非の是非をなどというとよく分からないかと思いますが、つまりは、何事にも白黒はっきりさせた立場をとらなくても良いと言うことです。
本則の風穴禅師が太公望と伯夷兄弟の事を持ち出して話をしていたのかは定かではありませんが、頌にあるようにちょっとの妄想分別を用いて国を興した太公望も、清廉潔白を貫いて自分の国も自分の命も失った伯夷兄弟も、どちらも是であり非であるということです。
よく、「空」だの「無我」だの「諸行無常」だのと言いすぎると、仏教では全てを空性、無自性と捉え妄想分別を持ち込まない実践ばかりしていると思われがちです。
しかし、意外とそうではない。というかそれでは人間として生活が出来ない。
ある時、ブッダがバラモン教の中でも火を信仰する集団を率いていたカッサパ尊者兄弟の元を訪れた時、カッサパ尊者兄弟から「我々は火を信仰しているから火について説法を行ってください。それ以外の話は受け付けません」と言われた。
すると仏陀は、大衆に向けて「今からここに座ったまま横でごうごうと燃えている炎を消して見せよう」と言った。そして、仏陀は眼を閉じて「さあ、皆も目を閉じなさい。すると、火を認識できず火の存在は消滅するだろう。熱を感じるのなら仕切りを使いなさい。五感でも心でも認識出来ないモノは存在することは無い。これが縁起である。」と説きます。
まぁ、理屈では分かりますが、火事の現場でこんなこと言う人が居たら無神経にもほどがあります。私も地元の消防団に所属していますが、目を閉じて「はい、火は消えました」などとは言わずに、交通整理やホースの準備をせっせと行います。
本則で風穴禅師の言葉を取り上げて「ここに生と死という二元論ではなく、生死一元にして妄想分別の無い修行僧はいるか?」と問いかけたのは、居るはずが無いという前提での質問でしょう。
自分の心の状況、対人関係、抱えている問題に応じて、今二元論に陥っているのか、二元論が必要なのか、縁起で物事を見るのか臨機応変に対応することでしょう。
そして臨機応変に対応する為に、「思い込んでいることは無いか」「絶対だと考えていることは無いか」「私は何のために生きているのか」という問いかけを持ち続け常に何かしらの信仰を疑い続けることが重要でしょう。
第三十五則「洛浦伏膺」

第三十五則 洛浦伏膺(らくほふくよう)
衆に示して曰く:
迅機捷弁(じんきしょうべん)、外道天魔を折衝す。
逸格超宗(いつかくちょうしゅう)、曲げて上根利智の為にす。
忽ち箇の一棒に打てども頭を廻らさざる底の漢に遇う時、如何。
迅機捷弁・・・心の動きが極めて速く、口が良く回ること。
折衝・・・衝は車や戦車のこと。折は敵を挫折させること。車で巧みに敵の攻撃をかわし、要所に突撃し破壊すること。現代で使う折衝とはちょっと違う意味。
逸格超宗・・・格式や各々の仏道を超越していること。
現代語訳
禅の指導者は頭の回転が速く一言が鋭い。その言葉は悪魔を降伏させる力がある。
格式や宗派の枠組みを超越した禅の指導者は修行僧に対して的確に仏道を説いている。
しかし、どのような手段を使っても硬い頭がほぐれない、相手への敬意も無い人に出会ってしまったらどうしようか?
本則
挙す。
洛浦(らくほ)、夾山(かっさん)に参ず。礼拝せずして面に当って立つ【相逢うて馬を下りざるは各自に前提有ればなり】。
山、云く、「鶏、鳳巣(ほうそう)に棲む。其の同類に非ず、出で去れ」【一手は推し、一手は拽く】。
浦、云く、「遠きより風に趨(はし)る。乞う師一接」【探竿手に在り】。
山、云く、「目前に闍梨無く、此間に老僧無し」【影草身に随う】。
浦、便ち喝す【筋を尽くし力を截る】。
山、云く、「住(や)みね住みね。且らく草草怱怱なること莫れ【会者は不忙、忙者は不会】。
雲月是れ同じく溪山各(おのおの)異なり【斜街暗港、生客頭迷う】。天下人の舌頭を截断(せつだん)することは即ち無きにあらず【只、錐頭に利を見て】、争か無舌の人をして解語(げご)せしめん」【鑿頭の方を見ず】。
浦、無語【長蛇陣前、弓梢地を撲つ】。
山、便ち打つ【意(おも)わざりき夾山、却って臨済と作らんとは】。
浦、此より伏膺(ふくよう)す【芸は当行を圧す】。
洛浦・・・洛浦元安(833~897年)。の弟子。長い間臨済禅師の侍者をしていた。夾山善会禅師の弟子。
夾山・・・夾山善会(805~881年)。船子徳誠の弟子。
探竿手に在り・・・盗賊が隠れている草むらをかき分けるのに使う棒を探竿という。相手の腹を探るという意味。
影草身に随う・・・盗賊の隠れ蓑を影草という。ここでは夾山が洛浦の腹の内を探ることを指す。
斜街暗港・・・曲がりくねった街の薄暗い港。
生客・・・初めて来る人。
弓梢地を撲つ・・・戦の最中に矢が尽きてしまった。洛浦も最初は矢があったが今はもう放つ矢が無い。
伏膺・・・師の教えを護って、身に沁み込ませること。
現代語訳
洛浦が夾山禅師のもとを訪ねた時のこと。
洛浦は夾山禅師に面会しても挨拶をせずに突っ立っていた【無礼な態度をとれるのは普通は見知った仲だからだ】。
夾山禅師が言った。「鳳凰の巣にニワトリが迷い込んだか。ニワトリは馬鹿だから鳳凰に挨拶は出来ないのか。さっさと出て行ってもらおうか」【洛浦は鳳凰かニワトリか見極めてみよう】。
洛浦は「はるばる、遠方から夾山禅師の噂を聞きつけて参った者です。何卒、一つご教授頂けないでしょうか。」とした手に出た【夾山禅師の腹を探ろうという魂胆だ】。
夾山禅師は「目の前に君はいないし、私はここにはいない。ならば授ける人も受ける人もいないであろう。」【夾山禅師も洛浦の腹の内を探っている】。
洛浦は「かっ!!!!」と一喝した【力の限りの奥の手だ】。
夾山禅師は「やめろ やめろ、そんなに狼狽えて騒ぐものでは無い【吠えるのは愚者だからだ。賢者は吠えない】。初対面に人にそんな手段は通用しないぞ【曲がりくねった道を進もうにも初見では迷ってしまう。洛浦も夾山禅師も初対面であるから迷ってしまう】。君の「かっ!!!」は妄想分別を離れる働きはある。しかし、初めから会話もしていない人に使っても仕方ないだろう。」と言った。
洛浦は初めの勢いも無く黙ってしまった【今や放つ矢も失ってしまったようだ】。
夾山禅師はこれを見てすかさず棒でバシッと打った【この手際は臨済禅師そっくりだ】。
洛浦はこの時から夾山禅師に師事し修行に励んだ。めでたしめでたし【夾山禅師の方が数段上手であった。】。
頌
頌に曰く。
頭を揺(うご)かし尾を擺(ふる)う赤梢(せきしょう)鱗【口に香餌を貪り身は網羅に掛る】。
徹底無依転身(むえてんじん)を解す【今日、網底を拽在す】。
舌頭を截断(さいだん)して饒(たと)い術有るも【君、方(まさ)に雪を掃いて松子を尋ぬ】、
鼻孔(びくう)を拽廻(えいかい)して妙に神に通ず【我、已に榛を開いて茯苓(ふくれい)を得】。
夜明簾外(やめいれんがい)、風月昼の如し【三光の勢いを借らず】。
枯木巌前(こぼくがんぜん)、花卉(かき)常に春【潜に一色の功を消す】。
無舌の人、無舌の人【鼻孔裏に応諾せよ】。
正令、全提、一句親し【暗裏に横骨を抽(ぬ)く】。
寰中(かんちゅう)に独歩して明了了【真光は耀かさず】。
任従(さもあらばあれ)、天下楽しんで欣欣たることを【紜紜(うんぬん)は彼に自(まか)す。我に於て何おか為さん】。
赤梢鱗・・・洛浦が臨済禅師のもとを去る時、「臨済門下にこの赤梢の鯉魚あり、頭を揺らし、尾を振るって南方に向かって去る」と言われた。つまり洛浦の事を指す。
鼻孔を拽廻・・・鼻を捩じること。
榛・・・木のしげみ。
茯苓・・・根っこに寄生するキノコ。薬用にもする。
三光の勢い・・・日、月、星の三つの光。自身の行為が及ぼされ光が届く(存在を現成できる範囲)所は三光の力が無くても照らされる。
寰中・・・天子も直轄地。
現代語訳
勢い盛んな洛浦が夾山禅師のもとへやってきた。
仏道は本来、悟りも迷いも無く自己の行為によって存在を現成させるものであると理解している。
一喝には言語に捉われた人を黙らせる効果はあるだろうが、ここでの洛浦の一喝は夾山禅師によって逆にねじ伏せられてしまった【洛浦は無語の言葉があると思っているのか】。
宝石がついている簾がある部屋でくつろいでいると、夜の月や星の明かりがまるで昼のように明るく簾がキラキラと光っている。今外で星を見ているのか部屋の中で宝石を見ているのか分からなくなる。これは自己を照らす灯火だ。
枯れた木が目の前に在るだけなのに、まるで花が咲き誇っているように見える。逆に花が咲き誇っているのに、それが枯れた木に見える。
妄想分別を超えれば枯れた木も花だという姿勢で見れば花になり、花も枯れていると思えば枯れた木になる。
「言葉を持たない人の言語化による妄想分別はあるのだろうか。」
この一句こそ、仏祖が伝えてきた仏法であり、余すことなく語り尽くされている。
夾山禅師は仏法の法王であろう。これほど明るく明白なことは無い。
人々はこの光で等しく照らされる。自由自在に普く照らされるであろう。
解説
道元禅師が著した正法眼蔵に葛藤の巻があります、葛藤という漢字は葛と藤という植物ですが共に他の木に纏わりつき最終的には巻き付いた木を枯らしてしまいます。このことから、自分自身を縛る固定概念や思い込み、もっと深く言えば物事を言語によって括る言語化の事を指します。
そして、葛藤の巻に「多くの仏祖は葛藤を根絶することを目指すが、葛藤を持って葛藤を切るという見方をする者は少ない。葛が葛に巻き付き葛を枯らしていくという事もある。」とあります。私は損をしている、相手が非常識だ、あいつが悪いという強烈な自我意識や固定概念が苦しみを生む中で「私」という幻と「自分の常識」という思い込みを何とか消し去ろうと多くの僧侶は修行をするわけです。その中で、「ワタシ」「○○は常識」という言葉で考え思い心を動かす事を手放していきます。しかし、苦しみを生む言葉(概念化)を言葉を持って消し去っていくこともあると言う事です。
道元禅師は師匠から弟子に法を受け継ぐときも同じく、自分を縛ってしまう言葉(葛藤)を使って法を受け継ぐのであると言います。そして、師匠が授ける仏法は同じではあるが、受け取る弟子たちの仏法は各々違うモノであろう。何故なら葛藤という思い込みの言語化で為された言い間違いであるからだと言います。
洛浦が使った一喝は確かによく禅の僧侶が使い、長らく従事していた臨済禅師も一喝をよく使っていた。しかし、それは多くの葛藤(言い間違いの言葉)を交わし葛藤を使って葛藤に巻き付き葛藤が枯れた人同士が使って初めて葛藤を離れた一喝が伝わるのであろうか。それを初対面で夾山禅師に使っては逆にバシッと叩かれて終わってしまう。
洛浦は夾山禅師の葛藤を持って自分(洛浦)の葛藤を枯らしてくれる事を見抜いて、この話の後に夾山禅師の元で修行に励んだのだろう。
第三十六則「馬師不安」

第三十六則 馬師不安(ばしふあん)
衆に示して曰く:

心意識を離れて参ず。這箇(しゃこ)の在る有り。
凡聖の路を出でて学す。已に太高生(たいこうせい)。
紅炉(こうろ)、鉄蒺藜(てつびし)を併出(へいしゅつ)す。舌剣(ぜっけん)や唇槍(しんそう)も口を下し難し。
鋒鋩(ほうぼう)を犯さず、試みに請う、挙す看よ。
心意識・・・思慮分別。心の動き。認識作用。
太高生・・・すごく高い。
鉄蒺藜・・・マキビシ。棘のある鉄製の球状武器を地面に撒き、敵の侵攻を防ぐ。寄りつき難いという意味。
現代語訳
思慮分別、二元論を離れ仏道を歩む時、「離れる」という思慮分別が残ってしまう。
出家在家の区別、善悪の区別、良し悪しの区別、好き嫌いの区別を断ち切って仏道を学ぶと言っても、人間として生きてはいけない。
それは、炉で真っ赤になった鉄ビシに誰も触れられない事と同じだ。手に持って道に撒いてこそマキビシになる。
弁が立ち、説得力のある言葉が話せる人であろうとも無思慮無分別を語る事は難しい。
では、ここで鋭い言葉も用いず、真っ赤な鉄ビシを自由自在に扱える手段を紹介しよう。心して聞け。
本則
挙す。
馬大師不安【未だ必ずしも維摩に似ず】。
院主問う、「和尚、近日、尊位如何?」【常住事忙し問候を少き得たり】。
大師云く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(がちめんぶつ)」【是転筋、霍乱なること莫しや】。
馬大師・・・馬祖道一(707~788年)。南岳懐譲の弟子。八十四人の優秀な弟子を輩出した。
不安・・・不調。病気で弱っていること。
維摩・・・維摩居士という仏陀の在家弟子。仏陀や弟子の修行場所へ頻繁に訪れてはいちゃもんをつけて、論破していく人。
ここでは維摩経にあるエピソードを引用してのことと見受けられる。ある時、維摩が仮病を使い仏陀に「病気になっちゃいました~」と使者を出す。すると仏陀は弟子たちに「誰か維摩の見舞いに行ってきてくれないか?」と言います。弟子たちはいつも論破されているので誰も行きたがらない。そこで仏陀は「では○○行ってきて」と言うと○○は「この前、托鉢中に論破されたので嫌ですぅ」と断る。仏陀が「では◆◆行ってきて」と言うと◆◆は「この前、坐禅中に論破されたので嫌ですぅ」と断る。仏陀が「では△△行ってきて」と言うと△△は「この前、私の説法に対していちゃもんをつけてきたので嫌ですぅ」と断る。最終的にマンジュシューリ王子(文殊菩薩)が見舞いに行くという話。
ここでは仮病ではないよということが言いたいのか。
院主・・・寺の事務の責任者。
日面仏月面仏・・・日面仏の寿命は1800歳。月面仏の寿命は一夜。
転筋・・・こむら返り。足がつる。
霍乱・・・夏場の下痢。
現代語訳
ある時、馬祖道一禅師が病気で休まれていた【仮病じゃないよ】。
事務長の僧侶が見舞いに来て「馬祖禅師、近頃具合はいかがですか?」と聞いた【事務が忙しくてあまり見舞いに来られないのだろう】。
馬祖禅師は「1800歳の日面仏、一夜の月面仏だ。」【これは足がつったり、下痢になることとは違うぞ。この病の原因を考えなくては】。
頌
頌に曰く。
日面月面【覷著すれば則ち瞎す】。
星流れ電巻く【已に新羅を過ぎる】。
鏡は像に対して私無し【一点も謾じ難し】。
珠は盤に在って自ずから転ず【拏捉すれども住らず】。
君見ずや、鉆鎚(けんつい)の前、百練の金【盆釵釧券盂盤】。
刀尺の下、一機の絹【衾被衣冠襟領袖】。
覷著すれば則ち瞎す・・・見ようとすると目がつぶれる。
拏捉すれども住らず・・・抑えようとしても抑えられない。
刀尺・・・布切狭。
現代語訳
日面仏、月面仏を見ようと思っても見る事は出来ない。
その瞬間瞬間で認識が移り変わっていく、それと同時に物事の存在も移り変わっていく。
鏡は思慮分別を入れずに形をそのまま映し出す事ができる。人間は認識した物事に思慮分別を入れて見てしまう。
それが仇となる事もあれば、存在自体を自由自在に認識することも出来る。
例えばそれは、鉄の塊を優秀な鍛冶師が盆にもカンザシにも腕輪にもお椀にも打てるように。
また、絹の布を自由自在に切り、布団にも着物にも帽子にも襟にも縫えるように。
解説
日面仏、月面仏とい言葉はおそらく殆どの人が聞いたこと無いと思います。私も聞いたことが無いです。「仏名経」という仏の名前が羅列してあるお経に出てきます。このお経の目的は、別にその仏を信仰しろとか、実際にそのような人物がいましたというわけではありません。
その瞬間、その状況で現れる物事を仏として現成させようと考えると無限の仏が現成するということです。
では日面仏、月面仏についてみていきましょう。まず日と月には明確な差があります。それは月だけは毎夜姿を変える事です。
呼び名もそれぞれにあります。
1日目新月、2日目二日月、3日目三日月、7日目上弦の月、13日目十三夜 、14日目小望月、15日目十五夜(満月)、16日目十六夜(いざよい)、17日目立待月(たちまちづき)、18日目居待月(いまちづき)、20日目更待月(ふけまちづき)、23日目下弦の月、26日目下弦後の三日月、30日目三十日月(みそかづき)。
太陰暦を使う東洋文化では特に月の名前は一日一日区切りを付けるのに重要な意味を持ちます。逆に太陽暦を使ってもその日ごとに太陽の名前は変わりません。夏も冬も月の初めも月の半ばも同じ「太陽」「お日様」です。
つまり、言語によって存在が固定化されることを考えれば「三日月」と「下弦の月」は同じ存在ではないのです。逆に毎日昇るお日様は同じ太陽が毎日昇ってくる一貫した存在と認識されます。
以上のことを踏まえて馬祖道一の言葉を参究してみましょう。
事務長が病気で身体が弱り寝込んでいる時にお見舞いに来ます。そして「近頃具合はいかが?」と聞きます。この時に、元気な時の馬祖禅師と寝込んでいる馬祖禅師が同一の存在であるという前提のもと質問をしています。
しかし、「元気な馬祖」と「寝る馬祖」を同一の存在と捉えるのは思慮分別を交えての誤まった見方であるとも言えます。
鏡のようにそのままを映しだせばそこに在るのは「元気な馬祖」「寝る馬祖」という別個の姿かたちです。
そして、「病気の馬祖」と「病気の馬祖」を連日見舞いに行ったとしてもそれが同一かどうかは見舞う自己の認識に委ねられます。
つまり「元気な馬祖」「寝る馬祖」と様相を変える様は月の満ち欠けのように、違う存在として現成します。
しかし、これで終わりではありません。今度は「病気の馬祖」と「病気の馬祖」を同一と考えるのはお日様が昨日のお日様と同一であると考えるのと同じく自己の認識作用による勘違いです。なぜなら、それが同一である根拠がないからです。
太陽が二つあって交互に昇っているのか、それとも毎日別なのか、宇宙に行ったことが無く24時間太陽を見る事が出来ない我々には永遠に分かりません。教科書に書いてあっても只の文字です。
そこで確かなのは、「今この瞬間に太陽を認識する自己」「自己に太陽と認識される何か」が現成しているという事だけです。
その確かな現成は、その瞬間その瞬間で自己の行為と認識作用でものすごい速さで移り変わっていきます。
これを仏教では諸行無常と言います。
第三十七則「潙山業識」

第三十七則 潙山業識(いさんごっしき)
衆に示して曰く:
耕夫の牛を駆って鼻孔(びくう)を拽廻(えいかい)し、
飢人(きにん)の食を奪って咽喉を把定(はじょう)す。
還って毒手を下し得る者有りや。
拽廻(えいかい)・・・捩じりまわすこと。
把定(はじょう)・・・しめつけること。
毒手・・・厳しい手段。スパルタ。
現代語訳
田畑を耕す百姓は牛を使って耕すが、牛の鼻を捩じりまわしながらこき使う。
飢えた人から食べ物を強奪し、さらに喉を締め付ける。
このような厳しい教育方法を用いて仏道を学んだ僧侶はいるだろうか?
本則
挙す。
潙山、仰山に問う、
「忽ち人有りて、一切衆生但業識(ごっしき)茫茫(ぼうぼう)として本より拠るべき無き有りやと問わば、子(なんじ)作麼生(そもさん)か験せん?」【馬は是官馬、印を須(もち)いず】。
仰云く、「若し僧の来たることあらば即ち召して云はん、某甲と【脳後の一椎、来処を知らず】。僧、首を廻らさば乃ち云はん【頂門上に三魂を去却す】、是れ甚麼ぞと【炉竈の熱を趁(お)うて更に一下を与う】。
伊(かれ)が擬議せんを待って【脚板底に七魄を鑚了す】、向かって道わん、唯業識茫茫たるのみに非ず。亦乃ち本の拠るべき無しと」【生擒活捉】。
潙山云く、「善い哉」【苦口は親言を出だす】。
潙山・・・潙山霊祐(いざんれいゆう)禅師(771~853年)。百丈懐海の弟子。
仰山・・・仰山慧寂(ぎょうざんえじゃく)禅師(807~883年)。潙山の弟子。仰山の弟子たちの門流は潙仰宗と呼ばれた。
業識茫茫・・・業識は妄想分別のこと。茫茫は海面を望むように限りない事。ここでは、頭の中が妄想でグルグルしているくらいに訳していく。
馬は是官馬、印を須(もち)いず・・・知る人ぞ知る名馬は検査して証明の印を押す必要は無い。
三魂・・・三魂七魄は魂魄のこと。ここでは名前を呼ばれて吃驚して魂が抜けちゃったという意味。
現代語訳
ある時、潙山禅師が弟子である仰山に質問した。「仰山よ。もし突然僧侶が訪ねてきて『頭の中が妄想でグルグルしています。この妄想がどこから来たのか原因があるのでしょうか?』と聞いてきたとする。お主はなんと答えるかね?」
仰山は「もし、そのような僧侶が来たら後ろに回って『○○さん』と名前を呼びます。すると僧侶は後ろを振り向くでしょう。そこで、すかさず、『その自己を認識する妄想はどこから来たんだ!?』と聞きます。すると僧侶はまごつくでしょう。その隙を狙って『名前を呼ばれた時に、○○は私の名前だと判断するのも妄想だ。それがどこからか実体のあるモノから出てきたものでは無い。』と言いましょう」と答えた。
潙山禅師はその答えを聞いて「うむ、それで良い」と言った。
頌
頌に曰く。
一たび喚べば頭を廻らす我を知るや否や【真の白拈賊、甚の見難きことか有らんや】。
依希(いき)として蘿月(らげつ)又鈎(こう)となる【身を蔵して影を露わす】。
千金の子、纔かに流落(るらく)し【屏風を破ると雖も骨格猶存す】、漠漠たる窮途(きゅうと)に許(こ)の愁い有り【小器は大量にあらず】。
白拈賊・・・白昼堂々の泥棒。
依希・・・はっきりとしない様子。
蘿月・・・満月。ツタから覗く月。
鈎・・・釣り針のような月。三日月。
千金の子、纔かに流落し・・・法華経信解品にある話。金持ちの息子が幼いころに家出をしてしまい、路上生活者の仲間に入ってしまう。長い間路上生活を送っている内に親の事も家の事も忘れてしまう。ある時、親が子供を発見し家に連れ戻すが、子供は自分の家だという自覚が持てない。あれこれ策を講じてなんとか後継ぎとして自覚させた。
自己の認識と他人から与えられる自己の存在の不一致や空性を表している。
屏風を破ると雖も・・・屏風が破けても骨格が残っている。長者の息子は没落しても品性が残ってるということ。
漠漠・・・さびしいという意味。
窮途・・・困窮して道に迷う。
現代語訳
名前を呼ばれて振り向いた時、果たして自己は自己を認識しているだろうか【当たり前の事を認識するのも難しい時がある】。
自己の認識すらも、はっきりとせず、満月がぼやけて三日月にみえるようなものだ【雲が月を隠しても影が残る】。
長者の息子が家出して貧しくなれば、路頭に迷い過去を憂うことになる【没落しても品性は残る】。
解説
よくアンパンマンの話を仏教に結び付けて話をします。
「アンパンマン新しい顔よ!」といってバタコさんが顔を投げて、濡れた新しい顔と交換し、アンパンチでバイキンマンを倒す。
ここで、怖いのが新しい顔のアンパンマンと濡れた顔のアンパンマンが同一だと誰も証明できない事である。
多くの人は自我は脳みそで判断しているだろうと思っている。なのにアンパンマンは胴体だけが同一で顔が変わった時に、同一のアンパンマンであると本人も主張し、周りも「アンパンマン」と呼び続ける。
しかし、テレビに、濡れた顔は続けて登場しない。もし、濡れた顔が「いやいや私もアンパンマンです。アンパンマンとしの自我を持っています。」と主張するとどうだろうか。たちまち、多くの人はどれが本物のアンパンマンか分からなくなってしまう。濡れた顔も新しい顔も同じ記憶を持ち、同じ性格である以上、どちらもアンパンマンとして扱わなければならないだろう。
そして、アンパンマン本人は自我が二つに分離されて「アンパンマン」という記号で自己と外界と境界線を引き自己=アンパンマンという図式を維持できなくなる。
アンパンマン2号アンパンマン3号というように更なる分類を強いられることになるだろう。
ここで、言いたいことは自己を知ることは出来ないという事である。知ると言えば「自己=○○」というように名前、性格、職業、出身校、性別、生まれ、年齢、身体的特徴を言語化し当てはめていくしか出来ない。自己を知るうえで、自分と同じ特徴の人がいない前提で話をし、言語化した枠組みからはみ出してはいけない。例えば私は几帳面です。と言語化すればだらしなく大雑把な事を行った自己は忽ち自己では無くなってしまう。
仏道では「自己を知る」とは言わない。何故なら、自己は○○という言語化をすると的外れになり、かつ「知る」という主体や認識作用も結局のところ主体や認識作用を言語化しないと、それすらも認識できないからである。
道元禅師は正法眼蔵現成公案で
『仏道をならうというは自己をならうなり、自己をならうというは自己をわするるなり、自己をわするるというは万法に証せらるるなり、万法に証せらるるというは自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』
と示しています。
前文の解説はいたしませんが、自己を知るのではなく、自己をならう。自己とは今この瞬間の自己の在り方を自己の行為(身口意)によって現わしていくということです。
今回の本則では、「おい○○!!」と呼ばれた瞬間に自己=○○という認識作用(妄想)によって自己を知った気になる。
その認識作用(妄想)はなんだ?と言われれば、ざっくり勘違いでしょう。べつに勘違いだからダメということではなく、生活の便宜上勘違いを用いているということです。
いやいや、勘違いでは無く、絶対私は○○だ!!という強い思いを持ってしまうと、おそらく濡れた顔のアンパンマン達はストレスで精神崩壊するか、新しい体を手に入れて自己の名前を賭けて闘いでもするのでしょうか。
もっと深く言えば、唯識論のような認識作用だけは常に一定であると考えてしまうと煩悩や妄想、苦しみ、生きづらさの原因となる実体が存在すると考えてしまう。それを仰山禅師は否定しているのでしょう。
第三十八則「臨済真人」

第三十八則 臨済真人(りんざいしんにん)
衆に示して曰く:
賊を以て子と為し、奴(ぬ)を認(とど)めて郎と作す。
破木杓(はもくしゃく)は豈に是れ先祖の髑髏ならんや。
驢鞍橋(ろあんきょう)は亦阿爺(あや)の下頷(かがん)に非ず。
土を裂き茅(ぼう)を分かつ時、如何が主を弁ぜん。
賊・・・泥棒。
奴・・・使用人。
郎・・・夫。
破木杓・・・破損した柄杓。
驢鞍橋・・・ロバの鞍。
土を裂き茅を分かつ・・・かつて中国で統治者が家臣に領地を与える時、領地の方角の土を取って茅の上に乗せる儀式を行った。ここでは、仏法を引き継ぎ自分の領地(宗派)をたてることを言う。
現代語訳
盗賊を子供と思い、使用人を夫と勘違いするように、多くの僧侶が見識を妄想と認めて正しく物事が見えていると錯覚している。
壊れた柄杓を先祖の髑髏と見間違う事は無いだろう。ロバの鞍を見て父親のアゴだと見間違う事も無いだろう。なのに多くの人はこのような間違いを平気でやっている。
この妄想や勘違いを断ち切って、寺の主として仏道を示すにはどうしたら良いか?
本則
挙す。
臨済、衆に示して云く、「一無位の真人有り【基を安じ脚を定め了れり】。常に汝等が面門に向かって出入す【背後底聻】。初心未証拠の者は看よ看よ」【還って眼を具するや】。
時に僧有りて問う、「如何なるか是、無位の真人」と【還って語を解すや】。
済、禅牀を下って擒住(きんじゅう)す【爾更に諱む】。
這の僧、擬議す【他の真人を鈍滞す】。
済、托開して云く、「無位の真人甚んの乾屎橛(かんしけつ)ぞ」【大いに鉢を持し得ざるに似たり】。
臨済・・・臨済義玄(りんざいぎげん)禅師(???~867年)。黄檗希運禅師の弟子。徳山宣鑑禅師と共に厳しい仏道と峻烈な指導で知られる。
無位の真人・・・何者でもない人。性別も名前も生まれも職業も性格も無い、言語化出来ない人。
面門・・・目の前。顔面。ここでは口の意味か。
背後底聻・・・聻は「そこに」という意味。前面ばかりではなく後ろにも下にもという意味。
未証拠・・・まだ証明出来ていない。
擒住・・・ひっとらえて締め付けること。
鈍滞・・・台無しにする。
乾屎橛・・・トイレットペーパーが無い時代、大便の後は木のヘラを使用した。乾いた糞を取るヘラのこと。転じて価値の無い物を指す。
現代語訳
ある時、臨済禅師が修行僧達に言った「なんの属性も無い人がいる。これを無位の真人という。この無位の真人が常にお前たちの口から出入りしているぞ」【口だけではない前後左右到るところから出入りしているぞ】。
続けて「まだ無位の真人を証明出来ていない者はよくこれを観察せよ。」と言った【観察できる眼を持っているのかどうか】。
言い終わると、一人の僧侶が前に出てきて「無位の真人とはどのような者でしょうか?」と聞いた【臨済の言葉が十分に呑み込めていないな】。
臨済禅師は座っていた高座から降りて、その僧侶を掴んで揺すりまくった。これで無位の真人が分かったかとでも言うように更に締め付けた。
掴まれた僧侶は訳が分からず狼狽えた【真人を知ろうとしたのに真人を台無しにしてしまった】。
臨済禅師はこの僧侶を突き放して「無位の真人だというのに、なんだこの乾いた糞の棒は!!」
頌
頌に曰く。
迷悟相反す【糸毫を隔てず】。妙に伝えて簡なり【已に風煙を犯す】。
春百花を拆(ひら)かしめて一吹し【放去は較危うし】、力九牛(きゅうぎゅう)を廻らして一挽す【収来は太だ速やかなり】。
奈(いか)んともする無し泥沙(でいしゃ)撥(はら)えども開けざることを【我が眼本正し】。
分明(ふんみょう)に塞断(さいだん)す甘泉の眼【師に因る故に邪なり】。
忽然として突出せば、肆(ほしいまま)に横流す【禅牀を掀倒すとも怪しむことを得ず】。
師復た云く、険【拄杖を擲下して云く、一著を放過す】。
力九牛を廻らして一挽す・・・周の宣王の逸話。力強く犀の子供を引き裂き、九頭の牛を引きずり回すことが出来るというもの。
甘泉の眼・・・井戸の水が出てくる場所のこと。
現代語訳
迷いと悟りは相反する語句であるが、迷いを究めれば迷いは無く、悟りを究めれば悟りも無い。これを言い表せないながらも簡潔に伝えてきた。
春に百花が開き、春を探す必要は無い。臨済の力をもってすれば迷いも悟りも吹き飛ばせようぞ。
質問した僧侶は分別や言語で人を言い表そうと言う泥が詰まってしまっている。井戸の水の出口に泥が詰まって水が出てこないのと同じだ。
しかし、泥を払いのければたちまちに四方に水が勢いよく吹き出すであろう。
勢いよく水が噴き出すのもまた危ない。
解説
示衆に盗賊を子供として、使用人を夫として勘違いをしているとある。まず、37則の解説でも述べたように人の属性は言語化して固定化される。これがそもそもの勘違いであるとする。自分が相手をどのように扱うか、自分が相手からどのように扱われるかは大きな違いがある。
よく会話で「あの人は悪い人じゃないけど、どこか抜けてるんだよな~~」などと人のことを評価、判断することがある。また、性格以外でも「あの人は有名な作家らしいよ」と職業や趣味や過去の出来事によって判断されることもある。これらは、その人間のことを間違いなく表しているかと言うとそうではない。なぜなら、悪い人じゃないその人は実は会社では極悪人として扱われているかもしれないし、抜けていると評価される人も家庭では場を和ませ幸せな家庭を気づけるスーパー主夫かもしれない。有名な作家もスランプで悩み今は自分を作家として認識していないかもしれない。
過去にどうであったから、今もこのような人だと決定づけるには根拠が存在しない。
かつて仏陀のもとに4人の若いバラモンが訪ねてきたことがあった。バラモンは身分制度上のバラモン階級であると同時に修行者・出家者でもある。
若いバラモンが「先ほど、4人でバラモンである条件を話し合っていました。1人は両親がバラモンであることがバラモンの条件だと言いました。1人は他人からバラモンだと認識されればバラモンであると言いました。1人は自分の事をバラモンだと認識する者こそがバラモンであると言いました。長く話し合いをしましたが、結論が出ません。仏陀の考えを聞かせてください。」と意見を求めます。
すると仏陀は「私は、バラモンの母親から生まれた者をバラモンとは呼びません。バラモンの父親を持つ者もバラモンとは呼びません。他人からバラモン(友よ)と呼びかけられる者もバラモンとは呼びません。自分でバラモンを自称する者もバラモンとは呼びません。
私は、怒り貪り怠慢の心を抑え耐え忍ぶ者をバラモンと呼びます。動くもの動かないものに対して殺さず殺させない者をバラモンと呼びます。粗暴では無く、理路整然と真理の言葉を発し、誰も傷つけない者をバラモンと呼びます。善も悪も執着を離れ清浄である者をバラモンと呼びます。
私は、その時のその人の行為によって、その者たちは盗賊にもなりバラモンにもなると認識します。」(小部経典)
現代でもお坊さんは寺の生まれじゃないとなれないとか、逆に寺の生まれだから坊主になるんだと平気で言う僧侶がいます。
また、かつて得度式をしたから、本山で何年修行したから出家者であると主張する者がいます。
そうではなく、自己の今の行為で出家者であることを証明していく。その証明は常に一瞬一瞬続けていかなければならない。
本則にあるように未だ証明出来ていない者は無位の真人を証明せよとは、自己の行為によって私の存在は今この瞬間何者でもないと証明せよということです。
これを言語を用いて証明することは不可能です。なぜなら、男でも女でもなく、どの職業に就いているわけでも無く、年齢もなく、生まれも無く、容姿がなく、言葉もなく、臭いも無い人間を言語によって定義することは出来ないからです。
「さとり」という漢字を調べると「悟り」「覚り」「諦り」「証り」と4つが使われる。
とくに道元禅師が著した正法眼蔵では「証り」の字が多く使われます。それは「悟り」のように吾の心という実体があると主張することもなく、「覚り」というように何かを学んである時、知識によって覚るわけでも無いからです。また「諦り」というように最上の言葉を持って「さとり」を示せるわけでもないからです。
今、この瞬間に行為によって仏を証明する以外ないのです。さらに言えば証明する「仏」すらも空性であり、かつ何か分かるものでもないので証明のしようも無いのです。
雲門禅師という方が、「如何なるか是れ仏」と聞かれた時に「乾屎橛(かんしけつ)」と答えています。よくちょっとだけ仏教をかじった人や文字だけを追いかけている学者は「仏様は人の嫌がる事でもなんでも綺麗にしてしまうから、糞を掃除するヘラが仏なのだ」とのたまう事がある。そういう事ではない。
今回の本則で言いたいことは簡潔に言えば、自己紹介で話せる内容は全部勘違いだよということです。
縁起の観点から見れば大谷翔平が私は野球選手ですと自己紹介しても、野球をせずに野球についてコメントすればコメンテーターですし、サインを書いていればファンサービスをする人、CMに出ていればタレントです。その瞬間の行為が存在を決定づける。しかし、ここで野球という概念、サインという概念、タレントという概念という妄想分別すらも手放してしまえば、その人は何者でもない無位の真人となるということです。
概念妄想分別を持ち出さないのに、無位の真人を言語化してくださいというのは、なんとも頓珍漢なことをいう僧侶です。
第三十九則「趙州洗鉢」

第三十九則 趙州洗鉢(じょうしゅうせんぱつ)
衆に示して曰く:
飯(はん)来たれば口を張り、睡(ねむり)来たれば眼を合す。
面を洗う処、鼻孔を拾得し、鞋をとる時脚跟(きゃっこん)を模著(もじゃく)す。
那時(なじ)、話頭を磋却(さきゃく)せば、火を把(と)って夜深けて別に覓(もと)めよ。
如何が相応し去ることを得ん。
那時・・・その時。
磋却・・・さきゃく。
現代語訳
ご飯を食べる時は口を開き、眠るときは眼を閉じる。
顔を洗う時は鼻に手がかかり、靴を履く時は足が靴の中にある。
その行いに迷いも悟りも、苦しみも快楽も無い。出家も在家も無い。
これこそが仏の道である。なんの特別なことも無い。。
その当たり前の行いにふと疑問を持ったならば、夜に火を灯して探すように、行いを参究せよ。
さて参究して何が得られるだろうか?
本則
挙す。
僧、趙州に問う、「学人乍入叢林(さにゅうそうりん)、乞う師指示せよ」【叢林儞に於いて亦悪しからず】。
州、云く、「粥を喫し了(おわ)るや未だしや?」【渾金璞玉】。
僧、云く、「喫し了る」【久慣の衲僧上座に如かず】。
州、云く、「鉢盂(ほう)を洗い去れ」【左猜することを得ざれ】。
趙州・・・趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)(778~897年)。南泉普願禅師の弟子。
乍入叢林・・・初めて修行道場に入った新人。
渾金璞玉・・・渾金は黄金。璞玉は装飾の無い玉。黄金は装飾が無くても美しい。純粋無垢な様。
鉢盂・・・僧侶が食事の際に使う器。応量器。出家者は三衣一鉢という衣3着と食事の器1つしか持たないとされる。今は馬鹿な僧侶が高級車とか持ってるけどね。
左猜・・・穿った見方で疑う事。
現代語訳
ある時、新米の修行僧が趙州禅師の所に来て「私は新人の修行僧です。趙州禅師の元ではどのような修行をすれば良いのでしょうか?」と聞いた【真面目な修行僧だ悪くないぞ】。
趙州禅師は「おぬし、朝のお粥は食べたかね?」と逆に質問した【何の飾り気も無い質問だ】。
修行僧は「はい食べました」と答えた【古参の修行僧と同じく重要な修行をしている】。
趙州禅師は「そうか、では食べた器を洗ってきなさい」と言った【疑わず言うとおりにしろよ】。
頌
頌に曰く。
粥罷(や)めば鉢盂(ほう)を洗わしむ【快便逢い難し】。
豁然(かつねん)として心地(しんち)自ずから相い符す【但今日のみに非ず】。
而今参じ飽く叢林の客【旧きに依って粥を喫し了れば鉢盂を洗い去れ】。
且らく道え其の間に悟り有りや無しや【一人虚を伝えれば万人実を伝う】。
快便・・・良い船便。ここでは良い指導に出会えたという意味。ウンコのことじゃないよ。
心地・・・心は認識主体(自己)。大地が草木や穀物を増長されることから、心を大地に例えたもの。心も目でゴキブリを見ただけで様々な妄想を増長派生させる。どこから入ってきたのか、気持ち悪い等々。
現代語訳
お粥を食べたら鉢盂を洗ってきなさいという指示はとても良い指導だ。
この新米修行僧の道がパッと開けた。
世間には十分に修行しただろうと思っている修行僧が多くいる。そんな僧侶は今すぐ器を洗ってきなさい。
その器を洗うという行為に悟りや迷いや善悪があるだろうか?誰かが悟りがあると言ってしまえば悟りを実体視してしまう。
解説
この趙州洗鉢の話は私にとってとても重要な話です。
永平寺で修行中、首座という配役を頂きました。この首座というのは3か月間限定の修行僧のリーダ・模範です。首座は3か月間のテーマを決めて、修行僧達はそのテーマに沿って修行をしていきます。その時、私が選んだテーマがまさに趙州洗鉢の話でした。
示衆にもあるように、仏道修行とは特別なことをするわけではありません。滝に打たれたり、山の中を飲まず食わずで走り回ったり、火の上を歩いたりするのは仏教には1mmも関係のないことです。これらは修験道の民間信仰が混ざった結果でしょう。
悟りでも迷いでもないこと、善でも悪でもないこと、意味があるわけでも意味が無いわけでも無いことを徹底して行う。それが修行です。
俗世間にいると、多くの方が幼少期から勉強しなさい、働きなさい、夢を持ちなさい、将来に向けて努力しなさいと口酸っぱく言われるでしょう。そして優先順位や優劣順位を決めていくわけです。ゴロゴロするよりも机で勉強することが優先。Fラン大學に行くよりも慶応義塾大学、国立大学に行く方が良い。この勉強は必ずやらなければならないと。
しかし、生きていく上で絶対にしなければならないこと等ほとんど無いのです。ちゃんと起きてご飯を食べて排泄して寝る。それだけ。
本質的に生きるか死ぬかに関わること以外は重要では無い。いやいや、お金が無いと病気の時に困るじゃないかと思がちですが、お金があろうが無かろうが死ぬときは死ぬし老いる時は老いる、病気になるときはなる。今の状況で治せるのであれば治すに越したことは無いでしょうが、いたずらに将来の事を不安に思い勝手な優先順位をつけて心が疲弊したら本末転倒でしょう。
そして、自分の事ならまだしも、親が子供の人生に優先順位をつけたり幸せを定義して押しつけたりすると子供は地獄です。
親子関係だけではありません。宗教も同じです。カルトは如何に相手に不安を与え将来を恐怖させるかにかかっています。その不安を解消する為に、恐怖から逃れるために信者の優先順位、価値観を変えていくのです。
仏教では、そもそも不安も恐怖も空性であり勘違いでありまやかしであると説きます。まやかしを取り除いた後に残るのは起きて歯を磨いて、食べて器を洗って、座って立って寝るだけでしょう。
その日常底を丁寧に敬意を持って当たり前のことを当たり前にしていく。
永平寺でこの本則の解説を修行僧にした際に、単頭(修行僧の指導役)老師から「汚れた器を洗う事は確かに当たり前だが、果たして新米修行僧の器は汚れていたのだろうか?出家者であれば、洗ってきなさいと言われなくても既に洗っていたのではないか?であれば、既に洗った器をもう一度洗ってきなさいとも読める。その心はなんだ?」と突っ込まれました。
確かに、その通りです。
さて、洗った器を再度洗うことの修行とは何でしょうか?
悟りたい、修行がしたいという思い(塵)も洗ってきなさいということでしょうか。
意味の無い事を徹底的に行いなさいということなのでしょうか。
是非、これを読んだ出家者の方はこの公案に取り組んでいただきたいと思います。
第四十則「雲門白黒」

第四十則 雲門白黒(うんもんはっこく)
衆に示して曰く:
機輪(きりん)を転ずる処、智眼(ちげん)は猶迷う。
宝鑑(ほうかん)を開く時、繊塵(せんじん)は度(わた)らず。
拳を開いて地に落ちず、物に応じて善く時を知る。
両刃相逢う時、如何が廻互(えご)せん。
機輪・・・機は心の働き。心がよく動いている様。
現代語訳
師匠が弟子に安心を伝えようと思っても、なかなか難しくかえって迷いの心を起こしてしまう。
もし心を正確に映し出す鏡があれば、余すことなく心を伝えられるだろう。
何も握っていないのに拳を開いても落ちる物は無い。心すらも実体が無く空であるのだから、今の行為によって物の存在を知ることが出来る。
では、力量が同じ二人の僧侶が相対した時、お互いにどのような行為によってどのように存在を確立させていくのか?
本則
挙す。
雲門、乾峰に問う、「師の答話を請う」【空頭に頂𩕳没し】。
峰云く、「老僧に到るや也た未だしや?」【早く箇の汝に答え了れり】。
門云く、「恁麼ならば即ち某甲遅きに在り」【譲るときんば則ち余り有り】。
峰云く、「恁麼那(いんもな)、恁麼那」【切に忌む恁麼に会することを】。
門云く、「将(まさ)に謂(おも)えり侯白と、更に侯黒有り」【好手手中に好手無し】。
雲門・・・雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師(864~949年)。雪峰義存の弟子。この話の時は乾峰禅師に随身していたようだ。
乾峰・・・乾峰士曇禅師(不詳~不詳)。洞山良价の弟子。
老僧・・・禅僧全般を指すがここでは乾峰禅師のこと。
侯白・・・昔、侯白という男の盗賊と侯黒という女の盗賊がいた。侯白が侯黒を騙して物を盗もうとした時、逆に侯黒が侯白の着物を盗んでいったという故事。上には上がいるという意味。
現代語訳
ある時、雲門が乾峰禅師のもとで修行していた時。雲門が質問もしていないのに突然乾峰禅師に「答えを伺ってもいいでしょうか。」と言った【問いかけも無く答えを要求するとは奇妙な】。
乾峰禅師が「お主は私のところに来て質問したことがあったか?」【実は答えは終わっている】と逆に聞いた。
雲門は「おっと、質問するのが遅かったようですね~」と答えた【一歩引いたところに雲門の凄さがある】。
乾峰禅師は「そうか、そうか」と言った【言葉どおりに受け取ってはいけない】。
雲門は「上には上がいますね~。参りました。」と言った【両方とも上手だから、どちらが上も無い】。
頌
頌に曰く。
弦筈(げんかつ)相啣(ふく)み【高低普く応ず】、網珠(もうじゅ)相対す【左右原に逢う】。
百中を発って箭箭(せんせん)虚しからず【対揚準有り】。
衆景を摂(おさ)めて光光無礙(むげ)【独り耀いて私無し】。
言句の総持を得て、遊戯の三味に住す【語を出だせば章を成す。動を挙ぐれば拍に合う】。
其の間に妙なるや、宛転偏円(えんでんへんえん)【球の盤に走るが如し】、必ず是くの如くなるや縦横自在【令行の時を看取せよ】。
弦筈・・・弓のつる、矢はずという弦に引っ掛けるへこみ。
網珠・・・帝釈天宮の網羅堂には中央に大宝珠があるという。その大宝珠の周りに無数の小珠が網のようにかかっている。その無数の小珠が大宝珠に映り様々な姿で輝くという。
左右原に逢う・・・どこを向いても珠ばかり。つまり宝鏡(心を映す鏡)ばかりだということ。
総持・・・陀羅尼のこと。陀羅尼は文字に非ず。陀羅尼は言語による概念の固定化をしない智慧の働きを表す。
現代語訳
二人の問答は弓矢のようだ。弦に矢がピッタリと嵌まり、どこに射っても百発百中。無駄な矢は無い。
網羅堂の珠は大小相対してお互いを映し合っている。どちらを向いても同じ景色で映すことは無く、まるで人間の心を映し出す宝鏡のようだ。
二人の言葉は陀羅尼のように、語相を離れている。遊戯三昧の如く自然に現成し、偏りも無く円やかである。
玉が盤上を転がるように遮るものが無い自由自在の境地であり、縦横自在である。
解説
今回の話は乾峰禅師の師匠である洞山良价禅師の書かれた宝鏡三昧の内容を踏まえないと解説できません。
しかし、ここで宝鏡三昧の解説をすると膨大な文章量となる為割愛いたします。