禅問答の漫画と自己流解説~番外編~
従容録しかり、私の勝手な解釈であり、正確性は保証しません。「あ~そういう見方もあるんだな~」「そんな解釈ありなの?まぁ無しとも言えない」くらいの距離間でお読みください。
そして出来れば、今後仏典や論書を読む際も、どんない著名な学者が書いていても記載内容が絶対の真実だと思いながら読まないでください。あくまでも自分の仏教の捉え方、自分のテーマに沿って参考程度に読んで頂ければ幸いです。
目次
- ○ 「麻谷風性」
- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・評してに曰く
- ・解説
- ○
- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
- ○
- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
- ○
- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
- ○
- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
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- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
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- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
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- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
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- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
- ○
- ・拈じて曰く:
- ・本則
- ・解説
「麻谷風性」

麻谷風性(まよくふうしょう)
拈じて曰く:
自己啓発だの自己実現だの、私が害された私が罵られた私が損をしたと私を中心に思考を展開し多くの人々は心が疲弊する。多くの苦しみを受ける。
この自己とは何時何処何の結果によって認識され生み出されたのであろうか。
「自己は○○である」「自己は○○になれる」という認識をも打ち砕く仏道を示す祖師が多くいる。
「扇」と「自己」と「風」と「あおぐ」という仮設された存在を用いた宝徹禅師の意図を探ってみよう。
本則
挙す。
麻谷山宝徹禅師、一日、扇を使う。
次、僧ありて問う、「風性は常住にして、処として周からざるはなし。和尚、甚と為てかまた扇を揺がす」。
師、云く、「你はただ風性の常住なるのみを知りて、且つ処として周からざるはなきを知らず」。
僧、云く、「作麼生かこれ処として周からざるはなきところの道理」。
師、却に扇を揺がす。
僧、礼を作す。
師、云く、「用処なき師僧、一千箇を著得して、什麼の益かあらん」
〈原漢 『全集』第五巻一九四~一九五頁〉。
麻谷・・・麻谷宝徹(まよくほうてつ)禅師。馬祖道一禅師の弟子。麻谷山にて修行をされていた。
現代語訳
麻浴山宝徹禅師がある時扇をあおいでいた。
ある僧が質問した。「風はいつも吹いていて、風が吹いていない処はありません。なぜ扇であおぐのですか?」
麻浴禅師が答えた。「お前は風がいつも吹いていることを知っているようだが、風が吹いていない処がないということは知らぬようだ。」
僧が質問した。「風が吹いていない処がないという道理とはなんでしょうか?」
麻浴禅師は扇であおいだ。
僧は礼拝した。
麻浴禅師は言った。「もし千人の僧が扇を持っていたとしても、あおがなければ何の風性の利益もないだろう。」
評してに曰く
風が吹くのではなく、吹くから風が現成するのである。
私が生きるのではなく、生きているから生きる私が現成するのである。
僧が礼拝するのではなく、礼拝するから礼拝僧が現成する。
吹も風も一等であり、生も私も一等であり、礼拝も僧も一等である。
不二に非ず、風に非ず、我に非ず、僧に非ず。
是是這と熟処するのみ。
解説
「風性は常住」とは時間軸においての縁起の話。
「処として周からざるはなし」は空間軸においての縁起の話。
普通この話を聞くと、風は常に有るが感じる事は出来ない。なので扇を使ってあおぐことで感じる事ができると解釈する。これを悟りや修行という行為に転換すると、悟りや仏性や自己もこの修行行為の結果で知る事が出来ると読めてしまう。
私は、この解釈は取らない。
この解釈はいわゆる習禅と言われたり、天地いっぱいの命があらわれるや、仏性まるだしのような理屈になってしまう。
「私」が「扇」で「あおぎ」結果として「風」が吹くという時、全ての存在と行為は二元論に付随して説明される。縁起ではそうではなく「私」=「扇」=「あおぐ」=「風」となる。それは「あおぐ」という行為をした時に「あおぐ行為をする私」が現成し、「あおぐ行為によって保証される扇」が現成し、「あおぐ行為によって風」が現成する。従容録25則「塩官犀扇」のように骨組みだけで扇ごうが、扇子ではない何かで扇ごうが、その「あおぐ行為によって風」が現成することには変わりはない。また、「馬祖磨磚」のように、普通考えれば瓦が鏡になることは無いが、「鏡」を「磨かれたもの」として現成すると扱うのならば、何を磨こうが磨かれている間のみ瓦も鏡として現成する。
同じように、風は常に在り、どこにでも在るといえるのは扇いでいる間のみの存在様式であり、この風性自体が縁起を表している。
これを「自己」や「被害」や「他己」に当てはめれば、まさに自己の行為に保証される「害されたこと」「他人」「過去未来現在の自己」を現成させていくことになる。この二元論から縁起への転換が「私が○○された」などの自己認識による苦しみを緩めるヒントになる。
しかし、これは容易では無い。その為、仏道では生活様式を根底から転換して修行「生活」によって身に迫る全てを「何の存在か」として問いかけ「律儀」によって「敬意と慈悲の何か」を現成させる。
拈じて曰く:
本則
挙す。
解説
拈じて曰く:
本則
挙す。
解説
拈じて曰く:
本則
挙す。
解説
拈じて曰く:
本則
挙す。
解説
拈じて曰く:
本則
挙す。
解説
拈じて曰く:
本則
挙す。
解説
拈じて曰く:
本則
挙す。
解説
拈じて曰く:
本則
挙す。
解説
拈じて曰く:
本則
挙す。