2025.3.20~春彼岸会法要~

今年も春の彼岸会法要を厳修いたしました。
法要の前日は珍しく雪が降りましたが、当日は天気も持ち直し春の日差しが降り注ぐ心地の良い日となりました。
ただ、雨や雪の後の日差しは花粉が良く飛ぶそうです。私(住職)は花粉症ではありませんが、参拝された方々の中には大量のティッシュを持参している方も居ました。
そんな中、今年は約130名の方が法要にご参列くださいました。





また法要の後、13時より恒例の正泉寺寄席を行いました。毎年お越しいただいている相模原出身の落語家「古今亭佑輔」さん、前座に「三遊亭歌きち」さん、太神楽「鏡味仙成」さんによる1時間半の寄席でした。
古今亭佑輔さんによる「抜け雀」や太神楽など会場は大盛り上がり!!。正泉寺寄席は約110名の方々にご来場いただきました。


ご公演、誠にありがとうございました。

彼岸会にご参列の皆様、正泉寺寄席にご来場の皆様、ありがとうございました。
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目次
法話「毒矢を抜け!!」
今日は、春分の日です。春を分けると書きます。では、今日は春か冬か。今日は寒いから冬か、イエイエ、春分の日だから春でしょうか。ちなみに、天気予報では春分を境に春の気候として扱われるそうです。このように、きっちり境界を引いてくれないとしっくりきません。何事もうやむやのままでは終われません。しっかり白黒つけましょう。
我々人間は白黒はっきりさせないと、気が済まない生き物です。
喧嘩したときにどちらが悪いか分からないと仲直りしたくない。
この土地がどっちの物か分からないと戦争をやめたくない。
いつ地震がおきるか分からないと外に出たくない。
自分らしさ、生きがいが分からないから、何もできない。
自分の見た目の評価は、自分の匂いは、自分の声は、分からないから、誰とも交流できない。
この分からないという、得体のしれない恐怖が身体を硬直させ、心を縛っていく。
しかし、現実、友人の気持ちは、家族の心は、自分の気持ちさえも分からない。人はどうやって生きていくのか、人はどうやって死んでいくのか、永遠に分からないことだらけです。
かつて仏教を開いたお釈迦様はこんな話をしました。
ある男性が毒の塗られた矢に刺された。周りにいた人は大慌て、急いで矢を抜こうとした。しかしその時、男性は「この矢は、桜の木か、銀杏の木か、何の木で出来ているのか分からないと抜きたくない。」「この毒はトリカブトの毒か、フグの毒か、何の毒か分からないと抜きたくない。」「矢を放った人は男性か女性かどんな人物か分からないとこの矢は抜きたくない」と言った。そうして男性は毒と出血によって死んでしまった。我々も心に刺さった矢を抜こうとするとき、分からない事に答えを出そう、決めつけようとして矢を抜くことを忘れている。
決めつけなくても、答えを出さなくても、分からないまま、出来る事があるはずです。
かつて、私は福井県にある永平寺というお寺で修行をしていました。学校と同じように集団生活です。食事も睡眠も掃除も全員で行います。
上下関係も厳しく、一年目であろうとも、年齢に関係なく1日一分1秒でも早く永平寺に入った人が先輩になります。
また修行生活は全てにおいて作法が決まっています。トイレの入り方から用の足し方までも。その為、男性用のトイレは作法に合わせて全てが和式の個室になっています。
私が永平寺へ入り、数か月後の時の話です。1年目が使うトイレは1年目が掃除をします。
その日も夕方にトイレ掃除の時間となり、掃除道具を持ってトイレの前に1年目の修行僧が集まります。
そして、それぞれが個室の掃除を始めます。その時1人の修行僧が「ぎゃー」と悲鳴を上げました。なんだなんだと私も含め修行僧が集まります。悲鳴が聞こえた個室に近づくと何とも酷い臭いがしました。そして個室の中を見ると、なんと壁一面がマッチャイロに汚れていました。
犯人探しが始まります。「最後にトイレに入ったのは誰だ」「ここまで酷いんだから、本人からも臭いがするんじゃないか」「まき散らしたやつ正直に言えよ」
「ここは、汚した人が掃除をするべきだろう」と。
もちろん、名乗り出る人はいません。
その時、1年目の中でも一番の先輩である修行僧が「いや、ここは俺が掃除をするから皆は違う個室を掃除してくれ」と言いました。
私は、急激に恥ずかしくなりました。一体自分は何をしていたんだ。今、することは犯人探しではなく掃除であった。
もし、「ここは俺が掃除する」と言ってくれなかったら、いつまでも犯人探しをしていたであろう。いつまでたっても誰も掃除をしなかっただろう。
自分が掃除をすれば解決した問題なのに出来なかった。犯人が分からないと掃除をしたくない。どんな状況でこんなに汚れたのか分からないと掃除をしたくない。掃除をするべき人を決めないと掃除をしたくないと。
この時から、私はトイレ掃除をするたびに、この日の事を思い出します。
正泉寺のトイレの掃除は必ず私が行います。それは、あの時、今できる掃除を犯人が分からないと出来ないと思った過去の自分を忘れない為に。
日常生活でも同じです。
決めつけないと行動できない。分からないとやりたくない。
そうではないのです。
喧嘩でどちらが悪いか分からないけれど、「ごめんね」と言うことはできる。
子供が何を考えているか分からない。分からなくても、子供の話を聞くことができる。
何のために生まれ、何をして生きるのか分からない。分からなくても今自分は玄関を開けて歩き出すことが出来る。
分からないことに答えを出そうとしなくても、分からないまま、今出来ることをすればよいのです。分からないまま、徐々に出来る事からすればよいのです。
毒矢の刺さった人は、「誰が射ったのか」「何の毒なのか」「なんの木なのか」という問いに執着して、痛みに対処しなかった。
我々も分からない事に執着し、時に自分の心と自分の身体、生きることを疎かにしてしまいます。
もし、出来る事が何なのかすら分からなくても、朝起きて、よく食べて、良く寝る。それができれば十分です。
皆さんが今答えを出そうとしている分からない事を、自らを縛っている「分からない恐怖」を探してみてください。