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蓮の花 万灯供養

大晦日から新年1月3日まで
蓮の花 万灯供養を行いました。

蓮の花献灯会にて
皆様がそれぞれに想いを込めて
制作・ご奉納くださった蓮の花ランプ。
謹んでご供養させていただきました。

皆様、ありがとうございました。

 
 

目次

万灯供養の由来と功徳

正泉寺では、先々代住職の頃に何十本もの蝋燭を境内地に灯す万灯供養を8月のお盆の際に行っていたそうです。
今では、火災の危険性と7月盆にお参りが集中する現状を踏まえ行っておりません。しかし、日本でも1300年前に聖武天皇が東大寺で万灯供養した記録が残る伝統的な行事です。この伝統行事を正泉寺でも復活させたいという思いを抱いていた時、「蓮の花献灯会」のお話をいただきました。
また、日本で万灯供養が行われる以前インドでも記録が残っています。
阿闍世王授決経(あじゃせおうじゅけつきょう)というお経にある物語が由来です。
お釈迦様が多くの人々に説法されている時の事でした。 マカダ国の阿闍世王(アジャータサッツ)は説法の後、お釈迦様とその弟子たちをお城に招きお食事を供養されました。 阿闍世王は家来に、「次はお釈迦様へ何を供養しようか?」と相談しました。すると家来は、次は「夜でも皆さんが説法を聞けるように沢山の灯りを供養しては如何でしょうか」と提案します。 阿闍世王は家来の提案を聞き入れて、灯明に使う油を供養する事に決めました。そこで、何千リットルもの胡麻油をお釈迦様に供養しました。
 この時、街に一人の貧しい老婆が住んでいました。この老婆は日頃からお釈迦様に供養を捧げたいと願っていました。しかし貧しい為、何も買う事が出来ませんでした。 阿闍世王が胡麻油を供養する車に出会った老婆は、深く感激して自分も油の供養を思い立ちました。そこで老婆は長く伸ばした髪をばっさりと切り、髪を売りました(昔はカツラや縄にするために売れた)。 髪を売って得たお金を持って油屋へ出掛け胡麻油を求めました。しかし、その金額でも油を買うには到底足りませんでした。老婆の様子を見ていた油屋の主人は、尋ねました。「お腹が空いているのでしょうに、なぜこのお金で食べ物を買わないのですか。油では命を繋ぐ事はできませんよ」すると老婆は、 「一生の間に一度しかお釈迦様に会う事が出来ないと私は聞いています。ところが今幸いにも私はお釈迦様と同じこの世に命を頂く事が出来ました。この会い難いお釈迦様に会いながら今まで貧乏の為、供養を捧げる事が出来ませんでした。 今日王様が胡麻油を整えて灯明の供養をされると聞いて、私もじっとしていられず、心ばかりの一燈を捧げたく願っております。」この話を聞いた油屋の主人は、老婆の誠実な心に感動しました。そして油代にも満たない僅かな金額であるにも拘らず、最高級の胡麻油を分けてあげました。 最高級の油だとは知らずに老婆はこれを受け取り、夕方油に灯りを着けてお釈迦様のもとへ向かいました。「これだけの油では僅かな時間しか燈す事が出来ないけれど、この灯りによって多くの人がお釈迦様の説法を聞けますように」と思いを込めました。
 お釈迦様の説法が始まりしばらくすると、強い風がビューーと吹きました。阿闍世王の献じた燈火は赤々と燃えましたが、その風に消え、油が尽きて消えてしまいました。阿闍世王の灯明が消える中、老婆の燈した燈火は夜通し燃え続きました。
 暗闇の中で燃え続ける灯明を見たお釈迦様の弟子であるアナンが訪ねます。「お釈迦様、なぜあの灯火だけは消えないのですか?」お釈迦様が答えます。「真心を持って灯した火はどんな風が吹こうが消えることは無い。あの老婆は、ここに誠の道心を持ち髪という財産にも捉われず火を灯した。」
 このように、お釈迦様は数の多少に拘わらず老婆の一心に注いだ布施の心を讃えました。阿闍世王もこの教えに深く感動して更に佛道の実践に勤みました。

和歌山県にある灯明の話

仏典にある灯明の話は「貧女の一灯」と呼ばれています。
じつは日本にも「貧女の一灯」の伝承があります。

むかし、現代の和歌山県の山奥に、奥山源左衛門(おくやまげんざえもん)・お幸(こう)の夫婦が住んでいた。
子宝にめぐまれるように、観音様にお参りした帰り道、辻堂の軒下に、編み笠の中に子どもが捨てられ、おぎゃーおぎゃーと泣いていた。
夢中でかけ寄った二人は、子どもを抱き上げると、りっぱな絹の小そでに美しいたんざくがそえてあった。
 千代までも ゆくすえをもつ みどり子を
         今日しき捨(す)つる そでぞ悲しき
このとき、乳飲み子を捨てるせつない親心をさとった夫婦は、(きっと仏様が授けてくださったんよ)と喜んだ。
夫婦は、子どもに「お照(てる)」と名付けて大事に育てた。

月日のたつのは早いもので、小さかったお照はすくすくと美しく育ち、村いちばんのやさしい娘になったが、お照が十六歳になったとき、流行病でお幸が亡くなっってしまった。
お照の心のこもった手厚い介抱もむなしく、間もなく、父も後を追うようにこの世を去った。
父が息をひきとる前に、お照を枕元に呼んで、その生い立ちを話して聞かせ、実の親の形見を渡した。
あいついで両親を失ったお照は、一人ぼっちとなってしまったが、両親の墓参りを毎日欠かすことなく続けていた。
そしてお照は、旅人から高野山燈籠堂の話を聞き、両親のあの世の幸せを祈るため、冥土の道を照らすという灯を、「奥の院」にお供えしようと決心した。
けれども、奉公先で貧しいくらしのお照は、手元に燈籠供養料は用意できなかった。
お照はいろいろと考えたすえ、女の命とまでいわれる黒髪を切って、お金にかえることにした。
かもじ職人の家で髪を切り短髪となったお照は、小さな木製の灯ろうを買い求め、形見の品と両親の位牌とともに高野山へ向かった。
お照は、ささやかな一生のうちで、最初で最後の高価な買い物であったが、この燈籠で両親の魂が救われると思うと本当に嬉しかった。
しかし、ようやくたどり着いた神谷(かみや)の里で、高野山の女人禁制の掟てを聞かされた。
一心に思いつめてきたお照は驚いて途方に暮れ、旅の疲れで、その場にうずくまってしまった。
そのとき幸いなことに、高野山から足早に下りてきた若いお坊さんに助けられた。
夢のお告げで一人の娘のことを知らされて、急ぎかけつけて来たという。
お照はお坊さんとともに女人堂まで上り、うれし涙で頬を濡らしながら、燈籠を渡し、お照の燈籠も須弥壇に並べられた。
奇しくもその日は、薮坂の長者が一万基の燈籠を寄進した法会があり、奥の院で新しい一万個の燈籠に灯がともされ、おごそかなお経の声に包まれて、幻想的な光景となった。
長者は先祖の菩提を弔うという厚い信仰から寄進を申し出たが、羨望のまなざしを浴びるうちに、今までに誰もできなかったことを成し遂げたとの気持ちが強くなっていた。
長者は、ふと万灯に目をやったとき、見知らぬ一灯に気付き、
「あの小さな灯ろうは、だれのものか。」
と、僧に尋ねた。
「あれは貧しい娘がささげました。」
と、聞いたとたん、
「いやしい女の、明かりが何になろう。」
と、立ち上がろうとした。
するとにわかに風がふきこんで、数多の燈籠が吹き消され、お堂の中は真っ暗になった。
その暗やみの中に、一つの光明があった。両親の菩提を祈り、乙女の命の黒髪で納めた孝女お照の燈籠だった。
この不思議なできごとに、長者は自分の行いを心からはずかしく思い、両手を合わせたという。
それから、お照のともしびは「貧女の一灯」として、長い年月を一度も消えることなく、今もなお「奥の院」の燈籠堂で清い光を放っている。

その後、お照は長者の世話により、天野の里に庵をつくり、尼となった。
毎日まことのいのりをささげるお照は、いつしか天野の里人にも親しまれるようになっていった。
ある年の冬、粉雪がまう朝、お照は慈尊院への道すがら、行きだおれの老人を見つけた。
お照は、
「御仏(みほとけ)に仕える者です。どうぞ、庵においでください。」
と、抱き起こした。
すると老人は、
「かたじけない、どうかおかまいなく………。人の情(なさけ)にすがることのできない、罪深い男でござる。このたび高野山へ登り、お大師様のもとで一生を送りたいと、ここまで参った。どうか、ざんげ話をお聞きくだされ。」と
老人は長い旅の間に妻に先立たれ、困り果てたすえ槇尾山のふもとで、わが子を捨てたことを話した。じっと聞いていたお照は、源左衛門の話を思い出した。
(もしや、このお方がお父上様では………。)
と、はやる心をおさえながら、あのたんざくの和歌を静かに読んだ。
千代までも ゆくすえをもつ みどり子を…
「そ、その和歌を知っているあなたは、照女(てるじょ)………。」
「………お父上様………。」
両手をにぎる父親と娘は、この不思議なめぐり合わせをなみだを流して喜んだ。 
その後、老人は高野山で僧になり、お照は天野の里で穏やかな祈りの一生を送ったという。
かつらぎ町では、お照の墓・庵の跡・父母の墓石の伝説が、ゆかしく語りつがれている。
(参考資料:和歌山の民話、新高野百景)

インドでの伝統仏教と違い、仏教を先祖供養や葬儀に組み込んだ日本らしいエピソードです。

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