2024.12.28~虚無僧尺八演奏会~
令和6年12月28日(土)、虚無僧尺八演奏会が行われました。
「正泉寺で演奏会を」とお声がけをいただきました。
ご縁に感謝申し上げます。
尺八は、どこかで聞いたことがあるような、
自然や懐かしさを感じる音色で、心落ち着く時間でした♪
ありがとうございました!
目次
虚無僧と普化禅師(ふけぜんじ)
禅問答を1つ紹介します。
虚無僧は中国「唐」の時代の僧侶である普化禅師という方に倣い日本人が興した集団と言われています。
普化宗という呼び名もあるそうです。
この普化禅師は、街を歩きながら鈴を鳴らし次の句を唱えていたそうです。
明頭來明頭打
暗頭來暗頭打
四方八面來旋風打
虚空來連架打
「明で来れば明で打ち返し、暗で来れば暗で打ち返す。4方向から来れば8方向から来れば振り回して打ち返し、虚空で来れば殻竿(ぬんちゃく)で打ち返す。」
これを聞いた臨済禅師は弟子を遣わし、普化禅師と問答をさせます
臨済弟子「明でも暗でも虚空でもないものが来た時はどうするのですか?」
普化禅師「明日、お寺で昼飯の会があったな」
臨済禅師の弟子は帰ってこの問答を伝えました。
臨済禅師は「やはり只者ではなかった」と言いました。
後日、臨済禅師は普化禅師に棺を送り、普化禅師はその棺の中で亡くなったといわれています。しかし、数日後棺を開けてみると普化禅師の姿は無かったといいます。
明と暗は二元論の物事の見方を表します。普段我々は物事に境界線を引き、言語で固定化して認識しています。
例えば、陸と海という概念も陸と海の境界線を引いて「陸」「海」という言語で固定化している。もし、地球上に陸地しかなければ「陸」という概念も生まれないし、地球上が水で覆われていたら「海」という概念も存在しない。
もっと複雑な事を言えば、国や民族と言う五感で感じ取れない概念も用いて境界線を引き、国土や領海という概念を作り出している。
仏教では二元論ではなく縁起論で物事を捉える。縁起とは自己の行為によって存在が決定づけられると考える。
例えば「コップ」という存在を見た時、二元論では「コップ」と「コップ以外の物」に境界線を引き、そこに「コップ」が存在していると考える。縁起論では「何か定義できない物」に自分が液体を入れ、それを飲むという行為によって「コップ」という存在を決定づけている。
無条件で「コップ」が存在していると思い込んでいるだけで、自分の行為が一定の条件下で「コップ」をコップたらしめている。
普化禅師は明や暗という二元論的な認識は無用だと打ち返すし、「虚空」という言葉も無条件の絶対性を持たないと言う意味で用いても、言語化されている時点で「空」では無くなっている為、無用だと打ち返すのであろう。
そして、「明でも暗でも虚空でもないものが来た時はどうするのですか?」と聞かれた時の答えは、「そもそも言語化されていない物事を言語で打ち返すことは出来ないので、何かしらの行為によって縁起を示すしかない」ということであろう。
とすれば、「生」を自己の行為が決定づけている以上、既に「生」の存在の物が改めて生まれる事はないし、自己の行為が「死」を死たらしめているのであれば、改めて「死」が滅することもない。般若心経でいう不生不滅である。
「死」の存在が自分の行為で現れるのであれば、自己の「死」は自己の中に存在していないのである。「死」の時、自己の行為が無いのであるから。
だからこそ、縁起論を徹底した普化禅師は棺に入った後、姿を消した。普化禅師自身は「自己の死」の存在を決定づけていないのだから。
臨済禅師は徹頭徹尾縁起を実践し、歩まれた普化禅師を称えこの話を残したのだろう。
今回の、虚無僧尺八の中に2曲「虚空」という題名があった。五感では表現できない行為としての「空」の境地がそこにあるのであろうか。