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花祭り法話 ~ひとつの命~

 

 

 

法話 ~ひとつの命~

 

花祭りに参列いただきありがとうございます。

今日はお釈迦様のお生まれになった日。誕生日です。

お釈迦様は生まれると同時に七歩歩き天上天下唯我独尊とおっしゃられたと言われています。

そんな赤ん坊いたらびっくりです。この伝記はモデルの話があります。お釈迦様が悟りを開き菩提樹と呼ばれる坐禅をしていた木から町へと教えを説くため歩いていた時の事。道の途中にバラモン教の出家者がいました。お釈迦様は出家者から「バラモン教の出家者には見えないが何者だ?」と尋ねられました。その時お釈迦様は「天上天下唯我独尊、」と答えました。自分の悟りの力強さと絶対の教えを持っている事を強調した言葉です。

成道会の際、天上天下唯我独尊についてお話をさせていただきました。

二つの意味があります。「私には限られた命を立派に生き抜く力がある」「私には私にしか果たしえない価値がある」という事です

これを生まれた時の話に伝記として持ってきた人物はどのような意図があったのでしょうか。

 

それは、自分自身の価値と命とは生まれた瞬間からあふれ出ている。という事です。昨日葬儀がありました。ちょうど式の40分前高校時代の友人から子供が生まれた。女の子だった。と連絡がきました。今まさに亡くなってしまった命がありそして、遠くの友人の目の前では生まれてきた命がある。死ぬ直前の命も生まれたばかりの命も平等なはずなのに苦しみも喜びも生んでしまう。

私の命も生まれた瞬間があり、死ぬ瞬間がある。自分の命や世界にあふれる命は何のために生まれてきたのだろうと、ふと思います。

 

 

「1リットルの涙」という有名な本、ご存じの方がいらっしゃると思います。愛知県に住む木藤亜也さんという中学生が頻繁に転んでしまうという不調を訴え、病院へ行った結果。手足や言葉の自由を徐々に奪われながら最後には体の運動機能を全て失う難病と診断されます。この病気は小脳、脳幹、脊髄が萎縮していっても大脳は正常に機能するため意識は健康な時と全く変わりません。つまり、自分の病気の進行を自分自身がはっきりと認識できてしまうのである。彼女は、体の自由が利かなくなることと自分の意識が変わることのない現実の狭間を日記にしました。運動神経が後退していく中三度目の入院を二十歳のころされます。そのときにはもう付き添いなしでは入院生活が出来ないほどになっていました。彼女はベットに横たわり天井の一点をみつめ、やがて三十分近くかかって一行の言葉を書きます。

「わたしは何のために生きているの?」と

それを見た母親は「この子は病気で苦しむために生まれてきたのだろうか。いや違う・そんなはずはない。生まれてきてよかった。生きていてよかったと思える自分の価値を見つけてやろう。」そして彼女にとって書くことが生きることだと思いいたった母親は彼女の日記を1リットルの涙という本にしました。

この「1リットルの涙」のなかで彼女は

私は何のために生きているのだろうか?私の中のキラッと光るものをお母さんなら見つけてくれると思います。教えてください。導いてください。生きたいのです。動けない。人の役にも立てない。でも生きたいのです。

と書いています。彼女の生き方そのものが力強く輝いています。彼女は病気が進行し25歳の短い命を閉じました。

病状が末期となり何も話せなかった彼女は「ありがとう」の「あ」を言い続けていたそうです。動けない、人に迷惑をかけることしかできない。それでも生きたいと願われた彼女と同じ命を今ここにいる皆さんは生まれた時から持っているのです。

その力強い皆さんの命と価値を「仏の命」と呼びます。

今日は「仏の命」をお土産にしていただいて終わりたいと思います。

時節柄、この後予定しておりました甘茶をいただきながらの茶話会は中止とさせていただきます。

 

 

追記

是非「1リットルの涙」を読んでみてください。あわせて木藤亜也さんの母親が書いた「命のハードル」も併せておすすめいたします。

1リットルの涙

命のハードル
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